カルチャー

映画の”怖い話”について考える。Vol.4/樋口泰人

『我は海の子』(ヴィクター・フレミング)

2026年7月27日

illustration: Shigokun
text: Yasuhito Higuchi
edit: Keisuke Kagiwada

 毎月ひとつのテーマを掲げ、4人の執筆者にそれにまつわる映画エッセイを寄稿してもらう「映画の〇〇について考える。」。今月のテーマは、夏といえばということで、”怖い話”。最終週は「爆音映画祭」を主宰する映画評論家の樋口泰人さんが、ヴィクター・フレミング監督の『我は海の子』を紹介してくれた。

『我は海の子』/樋口泰人

 子供のころから悪夢しか見なかったわたしの忘れられない夢のひとつに自分が乗った客船が嵐で難破して沈みゆくその船の中に残された自分は救命ボートに乗れず悲嘆にくれる、というのがある。嵐と大波とまだ目の前にいるのに越えがたい決定的な距離の向こうにある救命ボートの風景に胸がはちきれそうになって目が覚めるのである。1度や2度ではない。もはやそんな悪夢は見なくなった今に至るまで忘れられない夢なのだがある日ジョン・バースの『レターズ』を読んでいたら以下のようなフレーズに出くわした。

 

『勇敢な船長』に出演したときのライオネル・バリモアばりの雨合羽と、船に乗ったことのない新米水夫が持っているような外套とキッドの手袋をつけた、体の大きいひょろ長い人物を(後略)
ジョン・バース『レターズ』(国書刊行会)より

 そのときわたしは思わず『アネット』の嵐の海のシーンのアダム・ドライバーの姿を思い出したのだった。嵐の甲板で妻を海に落とすあの異様な雨合羽のアダム・ドライバー。あまりにその異様さが気になりいつしか子供の頃の悪夢の海とも重なり合い『アネット』の忘れられないシーンのひとつとなったのだが、では『勇敢な船長』とは何か? 調べると日本公開時のタイトルは『我は海の子』であった。1937年の映画。とにかく観てみようということで呑気に観始めるともうタイトルバックから嵐である。とにかく波。これでもかとやってくる。ジョン・フォードの『ハリケーン』の台風やサミュエル・フラーの『四十挺の拳銃』の砂嵐に匹敵する絶望的な力が画面に溢れている。人力で作り上げるそれらの風景の異様な迫力は、CGの作り上げるフィクションと現実との滑らかなグラデーションとは対極にある。フィクションと現実の決定的な切断が作り出す迫力と言ったらいいか。これはやばすぎる、こんなものを子供が見たらトラウマになるに決まってるのにいかにもお子様とご一緒にどうぞというこのタイトル。そしてこの中で少年が乗った船の船長であるライオネル・バリモアの嵐の中の雨合羽姿はまさにアダム・ドライバーのそれであった。

 もちろん彼は主人公の少年を助けてギリギリ何とか帰港するわけだからその役割はアダム・ドライバーとは全然違う。しかし人間の太刀打ちできない嵐の中の雨合羽という組み合わせは否応なしにトラウマというよりスティグマとして観た者の肌に刻み付けられるだろう。だからこそこうやってジョン・バースの記憶にも張り付いてその強さに導かれたわたしの悪夢の思い出がレオス・カラックスへと視界を開いたのだ。おそらく、いや絶対にカラックスも『我は海の子』を幼少期に観たはずなのだ。そしてそのトラウマが『アネット』の嵐のシーンを作り出しそれを観たわたしの衝撃が時代を遡り子供の頃のわたしにあの悪夢を見せたのだ。あの悪夢の中には雨合羽のアダム・ドライバーがいてわたしをその絶望的な断絶の向こう側へと誘っていたに違いない。

 と、ここまで書いて何かおかしいとなり『アネット』を確認したらなんと雨合羽を着ていたのは相手役のマリオン・コティヤールの方だったのだ。それで怖いのは自分の記憶、という落ちとなるのだが、こんな記憶の捏造、情報の誤配が生み出す何かをこそ私は映画に期待しているのでもあった。

プロフィール

樋口泰人

ひぐち・やすひと|映画評論家。執筆活動と並行して、個人レーベル「boid」で映画の配給・宣伝、書籍、音楽CD の企画・製作などを手掛ける。「boid」では、音楽用のライヴ音響システムを使用した「爆音映画祭」を主催。著書に『そこから先は別世界』など。

作品のあらすじ

『我は海の子』

ヴィクター・フレミング監督

金持ちのボンボンである少年ハーヴェイは、イギリス留学へと向かう途中に船から転落。漁船に救出されるも、すぐには港へ帰れない。しぶしぶ漁師たちと過ごす中で、ハーヴェイは漁夫のマニュアルへの尊敬の念を抱くようになる。ラドヤード・キップリングの児童文学が原作。

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