カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/渡辺正行

2026年9月24日

photo: Takeshi Abe
text: Neo Iida
stylist: Masahiko Kuroda
2026年10月 954号初出

明大落研で役者を目指した青年は、
コントに出合い、笑いに出合う。
最後のはずのネタが人生を変えた。

シャツ¥16,500(オールドサマー/クムスタイル☎03·3463·1109) その他は私物

ラジオから剣道へ。
部活に明け暮れた10代。

 歌舞伎町の地下にある『焼き鳥居酒屋 番番 新宿本店』。二十歳の頃、学生だった渡辺正行さんはここでアルバイトをしていた。コの字型カウンターの中央で、接客しながらお客さんを盛り上げていたそうだ。

「みんな笑ってくれるから、ここで働くために生まれてきたって思いました(笑)」

 いつもニコニコ明るいみんなのリーダー渡辺さんは、房総半島南部の千葉県いすみ市で育った。実家や親戚の家が立ち並ぶド真ん中を木原線(現いすみ線)が走り抜けるのどかな集落だ。家族は祖父母、両親、姉と兄がいて、末っ子の渡辺さんはふざけるのが好きな元気な子。中学にあがるとひょんなことで成績がぐんと上がった。

「高校生の姉ちゃんが深夜放送を聴きながら勉強していて、僕もラジオ目当てで一緒に勉強するようになって。よく聴いてたのは『オールナイトニッポン』。当時のパーソナリティは今と違ってアナウンサーで、亀渕昭信さんとかアンコー(斉藤安弘)さん、糸居五郎さんの番組が好きでした」

 当時、スポーツといえば野球が全盛。でも中学では剣道部に所属した。

「僕も最初は野球部に入ったけど、毎日兎跳びをやるんですよ。『これじゃ星飛雄馬になれない!』と辞めたら剣道部の先輩に『剣道は身長が高いと有利だから』と誘われて。でも入ったらまた兎跳び。あの頃はどのクラブに入っても兎跳びなんです。諦めて剣道を一生懸命やりました」

 合法的にサボるには……とぼんやり考えながらも部活に励み、中学校では県大会、高校でも関東大会に出場。この頃、お笑いへの興味はあったんだろうか。

「変わらずふざけてましたけど、お笑いや芸能界を意識したことはなかったですね。部活が忙しくてラジオも聴けなかったですし。それに当時のお笑いは大衆演芸とか音楽番組のコントくらいだったんですよ」

 漠然と東京への憧れはあった。「東京は眠らない街」という噂に魅了され、六大学に入りたいと思った。だが夏まで剣道漬けで模試の結果が平均16点! 浪人する余裕はないから狙うは一発合格のみ。試験までの3か月、学校で出欠を取ったら即帰宅し、仮眠を取って翌朝まで勉強を繰り返した。どうにかこうにか明治大学経営学部に合格。親戚が住んでいて安心という理由で新小岩に風呂なしトイレ電話共用の8500円のアパートを借り東京暮らしを始めた。

「ずっと田舎もんでした。新宿で京王線に乗り換えるんですけど、僕は毎日各駅停車なのに、みんなどうして平気で特急や急行に乗れるんだろうって思ってました。田舎だと特急には特急券、急行には急行券が必要だったから。ある日友達が『俺は特急に乗るぜ』とか言うから驚いちゃって」

 関東大会で全国には猛者がいると知り、もう剣道漬けの日々は送らないと決めた。楽しいキャンパスライフのためにクラブを探していると、新入生を勧誘する着物姿の落語研究会に目が留まった。

「落語のことは何も知らなかったけど、笑って過ごせる気がして入部しました。そうしたら先輩に立川志の輔さんがいたんです。落語をやってくれて、それが生まれて初めて聴いた生の落語。こんなに面白いんだ、とカルチャーショックを受けて、僕も志の輔さんみたいになろうと思いました」

 小咄を覚え、間の掴み方を習い、流派を勉強し、文化祭で披露する演目を練習する。夜はというと「麻雀(笑)」。雀卓を囲む先輩たちの会話がすこぶる面白く、ただ眺めるのが好きだったという。志の輔さんも、卒業したばかりのOB三宅裕司さんも俳優を目指していて、背中を追ううち、渡辺さんも芸能界を意識し始める。そんなとき同級生の小宮孝泰さんがテアトル・エコー附属養成所の試験を受けるというのでついていった。ちょうど二十歳の年だった。

「小宮もお芝居をやっていて詳しかったんです。二人とも受かって、発声練習やパントマイムをやりながら半年に一回の舞台に出て、大学3年と4年の2年間通って。でも卒業公演で演技って難しいんだなとわかり、悩みました。親は就職してほしいはずだけど、会社に入ったらこの道に戻ることはできない。演技を100の力でやったのかといえばまだまだ。自問自答を繰り返して、結局演技の道を選びました」


AT THE AGE OF 20


大学時代、明治大学落語研究会の活動に精を出す渡辺さん。明大落研の亭号はいくつかあり、校舎にちなんだ「和泉家」やスクールカラー由来の「紫紺亭」などが授けられる。渡辺さんが最初にもらったのは「和泉家祐駒」。「遊んでたわけじゃないですよ(笑)。だけどフォークソング部の女の子がやたらと俺のとこに来て、都会の子だから積極的で。当時の僕はただの田舎もんなのに女たらしって言われて、それで『スケコマ』。志の輔さんが卒業するときに『紫紺亭志い朝』を継ぎました。古今亭志ん朝さんの亭号と、植木等さんが広めた『C調』を合わせたもので、三宅裕司さんが四代目、志の輔さんが五代目、僕が六代目でした」

ストリップ劇場で解散寸前に。
突如開いた『花王名人劇場』の扉。

 親には黙っていたが、不思議と何も聞かれなかった。そして『番番』でバイトをしながら研究生として演技の勉強を続けた。

「その頃、芝居の勉強の一環として、小宮とテアトルで知り合った(ラサール)石井くんと3人でコントをやっていました。自分たちでお祭りや文化祭を探して『お金なんていらないからやらせてください』って電話をしてコントをしに行く。そうしたら天才じゃない? ってくらいウケて。アドリブを入れたら30分ぐらいドッカンドッカンウケてる。今までそんな経験ないから、俺たちの生きる道はこっちだと思ったんです。そんな活動をしていたら、知り合った人がコメディアンが出演できるストリップ劇場を紹介してくれたんです」

 ストリップの渋谷道頓堀劇場では幕間に10分ほどのコーナーがあり、コント赤信号として出演するようになった。だが、文化祭で大爆笑を取ったコントをやっても客はクスリとも笑わない。仕方なく頭をはたくベタなネタをやった。するとその頃、エンタメ界に漫才ブームがやってきた。

「裸のお姉さんがいる楽屋でテレビを見て『はぁ、俺らはテレビの世界は無理だな』と。小宮も石井も耐えられないって言うしもう解散しようと。そのとき、ストリップ出身のゆーとぴあさんが『単独ライブをやるから出ないか?』と声をかけてくれて。じゃあ最後に一本だけ作ろうと思って、一生懸命作ったらウケた。それが僕らのデビュー作の暴走族のネタだったんですね」

 漫才ブームの火付け役は、1979年放送開始の『花王名人劇場』と翌1980年に始まった『THE MANZAI』だ。横山やすし・西川きよし、B&B、ザ・ぼんちといった若手漫才師が続々と登場し、お茶の間を席巻。業界は次なるスターを求めていた。暴走族のネタは、不良の3人から知性が感じられる言葉が飛び出す、ギャップが笑いを呼ぶ名作。『花王名人劇場』のプロデューサー澤田隆治さんは、若い感性を持つ渡辺さんたちに目をつけた。

「ストリップ劇場から急に『花王名人劇場』って、シンデレラみたいでしたよ。そこでウケて、また呼ばれて、一本しかネタがないから慌てて作って。僕らはうまいグループでもなかったし、喋りが達者な漫才師の中に食い込むには技術では無理。でも発想なら勝てると思いました。俺たちにはツッコミがないから、リアクションを取る方向で組み立ててね。例えば僕と小宮が『俺たちは明治だ!』って高飛車に言うと、石井くんに『早稲田です』と返されてぐっとへこむ。ツッコミじゃない形で笑いを取る方法を試行錯誤しました」

 芝居と同じく、台本を作った人が演出も担当する。つまりリーダーになる。渡辺さんの愛称“リーダー”は、若かったあの日、必死で笑いに食らいついた名残だ。

「出会いと運でここまで辿り着いたなと思います。あと好奇心。生まれて終わるまでにどんなことができるんだろう、いろんな体験をしてみたい、っていつも思ってました。今、若い子にも言うんです。いつどんなチャンスが来るかわからないから、こういう漫才がいい、こういうコントがいい、じゃなくて広範囲にチャンスを広げておいたほうがいいよって。そうしたら新しい何かが見つかるかもしれないからね」

プロフィール

渡辺正行

わたなべ・まさゆき|1956年、千葉県生まれ。明治大学卒業後にラサール石井、小宮孝泰とコント赤信号を結成し、1980年『花王名人劇場』でテレビデビュー。司会者、俳優として幅広く活躍する他、若手芸人の登竜門『ラ・ママ新人コント大会』を主宰する。剣道七段。

取材メモ

学生時代のバイト先『焼き鳥居酒屋 番番 新宿本店』で撮影。内装は50年前とほぼ変わっていないそう。「人はいいし美味しいしバイトしながら飲むと半額。休みの日も来て飲むからバイト代がどんどん減って、その分働いて、抜け出せなくなっちゃって(笑)」。大学卒業後、バイトをしながら研究生として演技を学んだ時期がいちばん辛かったと渡辺さんは言う。「上手に演じられず誰も認めてくれないから、習い事をしたんです。ジャズダンス、モダンダンス、クラシック、声楽……。これだけやってるんだからいつか必ず売れる。そう思っていないとバランスが取れなかった。貧乏でしたけど周りも同じだったし、あまりお金のことは考えなかったですね。本当に目の前の仕事を一個一個成功させることに一生懸命。それがまた面白かったんですよ」