カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/綾小路 翔

2024年7月11日

photo: Naoto Date
text: Neo Iida
2024年8月 928号初出

心が折れ、逃げ出した19歳。
夜の街・歌舞伎町で揉まれ、
辿り着いた氣志團という出発点。

目立ちたい一心で制服を改造。
バンドも始めた木更津の青春。

 ここは駒沢のガソリンスタンド。純白の特攻服に身を包んだ綾小路翔さんは、二十歳の頃、この場所で社員として働いていたという。木更津から駒沢までの上京物語だ。

「10代は目立ちたがりでした。目立つといっても色々あると思うんです。ルックスがいい、運動神経がいい、殴りっこが強い。でも、僕はそのどれも一等賞になれなくて」
 

 生まれ育った千葉県の木更津が「房総半島の玄関口」と呼ばれるのは、東京湾アクアラインが開通した1997年以降。翔さんが10代を過ごした’90年代初頭は、のどかな田舎町だった。目立ちたいがゆえ、翔さんはヤンキーになった。でもその実態は、いわゆる「ワル」とは違ったようだ。

「ヤンキーってある意味かわいい生き物なんです。本物の無法者なら学校なんかシカトすればいいのに、何だかんだでちゃんと来るし、規則からちょっとはみ出すのが美学。変型学生服だってそう。学ランというカテゴリーの中で短くしたり長くしたり。オートバイも然り。カスタマイズが好きなんです」
 

 さらに中学の頃に訪れたバンドブームに衝撃を受け、自身も活動を開始。技術がないからと早い段階でオリジナル曲を制作し、メンバーを入れ替え、ライブハウスのオーディションを受けるなど精力的に活動。やがて進路を考えた高3の秋、「音楽で東京に行こう」と決めた。仲間に話すと驚きの回答が。

「ドラマーの(白鳥)雪之丞が『新聞奨学生でESP(音楽専門学校)に行く』って言うんですよ。彼とは幼馴染みで、お坊ちゃん育ちなのも知ってるから、お前みたいなもんがそんな殊勝な言葉を!? と呆然。他の仲間も『夏休み前に面接受けてきた』と。僕なんてマザー牧場でバイトして海でBBQして、ぼけーっと夏休み過ごしちゃったんですよ。これはやばいと」

 上京には資金がいる。父親に相談するも梨の礫。正解が見つからないまま卒業を控えた3月、副担任に相談してみた。

「『入社式って4月だよ。お前に何ができるの?』と呆れられて。当時ガソリンスタンドでバイトしていたので、その業務なら完璧にわかると嘘ついたら、先生が色々電話してくれて、一件面接してくれる会社が見つかったんです」

 卒業ギリギリで就職が決まり、近くて遠い花の都へ。原宿駅前にあった歩道橋で「東京の皆さん、ちょっくら伝説作りに来ちゃいました!」と叫ぶほど、気持ちは高まっていた。勤め先は世田谷区駒沢のガソリンスタンド。寮は大田区の六郷にあった。

 川崎の隣だし、東京って感じしねえな、さっさと金貯めて辞めようと思ったんですけど、社会人を舐めちゃダメですね。地元じゃタバコ吸いながらテレビ見てるだけのバイトだったのに、東京は全然違う。当時はレギュラーが1ℓ87円くらいの激安時代で、競争が激化してサービスに力を入れまくってたんです。窓を綺麗に拭いて、ボンネットのチェックをさせてもらって、『オートマチックトランスミッションフルードの交換の時期ですね』なんて営業かけて。通勤も大変でした。六郷から電車とバスを乗り継いで片道約1時間半。朝から晩までクタクタで、バンドなんか無理。すぐ1年が過ぎちゃって」

 地元に帰った仲間もいたが、雪之丞さんは6つのバンドを掛け持ちするドラマーに。昔からコミュ力が高く、東京の知り合いに声をかけられ、全国ツアーに参加するまでになっていた。翔さんも誇らしい気持ちで応援していたが、徐々に心がすさみ始める。

「暗黒時代ですね。木更津では自己肯定感に満ち溢れた子だったのに、自信がなくなって。それに、雪之丞から『バンドやろうよ。一緒にツアー回ろうよ』とピュアに誘われたけど、俺会社あるしなあ、ってしんどくなって。それで、人生であのときだけなんですけど、朝起きたらふと『仕事行きたくない』って思ってしまったんです。体が動かない。それで連絡もせずにバックレてしまったんです」

 1週間ほど現実逃避をしたが、逃げ続ける勇気もない。留守番電話には「俺のところに来い」と主任の声が残されていた。

「『所長に謝ってやるから』って。主任は東京のお兄ちゃんみたいな存在で。一緒に会社に行ったら、所長が2秒で『クビ』と。もう、恥ずかしくて情けなくて、なんてみっともないことをしたんだろうと。大好きだった所長と主任を裏切ってしまった記憶が、トラウマみたいに残りました。だから、その後も嫌なこと、怖いこと、いっぱいありましたけど、逃げずに解決する方法を探すようになりました。バックレたら終わりだから」


AT THE AGE OF 20


多摩川を渡れば神奈川県川崎市という東京の端。上京後に翔さんが暮らした大田区にある六郷土手駅。そのホームで撮影された写真には、まだあどけない翔さんの姿が(手にはキャベツ太郎)。働き始めた頃は、休みのたびに服を買っては地元に帰っていたという。「給料は雀の涙でしたけど、原宿とかで千葉では絶対手に入らないおしゃれなアイテムを買って、着て帰るんです。“東京行ってる感”を出したくて、そのためだけに買い物してました。今考えると赤面ですねえ」

流れ着いたのは歌舞伎町。
二十歳の終わりに氣志團を結成。

 寮を出て彼女の家に転がり込んだが、そんな精神状態では関係も悪化。さらに雪之丞さんとも喧嘩別れ。頼れる二人を失い、孤立無援になってしまった。

「雪之丞の家が下落合にあって、喧嘩したあと東スポを買ったら、『歌舞伎町/喫茶/日給1万5000円』という三行広告を見つけて。その足で新宿に向かいました」

 そこはポーカーを行う、非合法の喫茶店だった。日払い欲しさに始めた仕事だったが、暴れる客をいなすため矢面に立たされ、日々顔を腫らすことに。さらに能力が買われ、系列店でもボコボコにされながらも、数か月の間にどんどん出世。ついに新店舗の代表を任されることに。

「これはまずいと思いました。嘘も方便と、『母の身に一大事があり、お暇をください』と言ったんです。そしたら、敵対していた他店舗の方々からも『おふくろさんのこと聞いたぞ』とか言ってお見舞金が次々に届いてしまい……。もう戻れないなと覚悟を決めて歌舞伎町を後にしました」

 雪之丞さんと和解し同居を開始。夜の世界で心と体を酷使し、夢も消えつつあった二十歳の終わり、もう一度真剣に音楽と向き合ってみよう。そう思い、バイト雑誌で見つけた東高円寺のライブハウス、ロサンゼルスクラブで働き始めた。音楽活動に理解があり、練習スタジオを安く貸してもらえた。

「漫画『BECK』みたいな出逢いを夢見ていましたが、ギターを触ることもなく2年が過ぎたわけですよ。とにかく始めなくちゃと思って、東京の知人に片っ端から連絡して。ついに結成したのが氣志團です」

 雪之丞さんに加え、早乙女光さん、毒蝮愛さん、そして翔さんの4人でバンドを結成。夢見るバンド像はあったものの、駒沢と歌舞伎町の日々が翔さんを変えていた。

「この2年間で自分の実力を客観視できちゃったんですよね。思い描いていたスターにはなれないと。革ジャンを着るパンクバンドも席が埋まってるし、Tシャツに短パンのオルタナティブバンドも大行列。誰もやってなくて、誰にも負けないことって何かないか。で、僕、学ランのコレクターだったんですよ。先輩や進学しなかった友人のを譲り受けて、たぶん個人での所有量は日本一。『ハイティーン・ブギ』という漫画で、バンドの衣装に悩む主人公が、暴走族時代の革のツナギを着るくだりがあるから、俺たちは学ランで行こうと」

 こうして、“ヤンクロック”を標榜するバンド、氣志團が誕生した。転がる日々の先に、唯一無二の未来が待っていたのだ。

「上京してすぐにバンドをやれていたら、あっという間に挫折して木更津に帰ってたかも。失敗して、イリーガルな世界も見て、物事の捉え方とかわずかばかりの胆力が身についたのかな? 今思えば大事な時代だったのかもしれませんね」

プロフィール

綾小路 翔

あやのこうじ・しょう|1997年、千葉・木更津にてロックバンド氣志團を結成。2001年にメジャーデビュー。11月9、10日に、幕張メッセ 国際展示場9~11ホールにて『氣志團万博2024』を開催予定。先着販売はオフィシャルファンクラブHPにて。

取材メモ

まるでラジオみたいな、笑いだらけのインタビューだった。駒沢のガソリンスタンドは惜しまれつつも5月末で閉店。「実は今日ここに来ることを所長と主任にも連絡したんですよ」と翔さん。色々あっても今も連絡が取れるって素敵だなあと感慨深かった。特攻服は、間近で見るとめちゃくちゃ精巧。「“衣装”として作りたくなくて、ちゃんと仕立ててもらってるんです。だからめちゃくちゃ暑い。野外でライブすると袖から汗がシュパーッて飛んでいきますよ(笑)」