カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/庄司智春

2023年12月11日

photo: Naoto Date
text: Neo Iida
2024年1月 921号初出

NSC東京のトップ・オブ・トップ。
ネタにも遊びにも情熱を注いだ、
熱くて〝激イタ〟だったあの頃。

庄司智春さん

 就職3日で早くも挫折。
 芸人になろうと決意した。

 もう約15年も前の話だけれど、2009年4月、芸人がネタを披露する『爆笑レッドカーペット』での庄司智春さんが残した衝撃が忘れられない。「筋肉ダービー」というユニットで出演し、小島よしおさんやサバンナの八木真澄さんがギャグを披露するなか、全力で「ミキティーー!!」と叫んで大爆笑をさらったのだ。今や鉄板となった雄叫びは、これが初出し。司会の今田耕司さんは「婚約者の名前を呼んだだけでしたね」とツッコんだけど、ようやく公に交際を宣言できた庄司さんの魂の叫びに見えたし、生き様も笑いになる芸人のカッコよさがあった。そんな庄司さんは、小さい頃からお笑い好きなシティボーイだった。

「『8時だョ!全員集合』より『オレたちひょうきん族』のほうがお笑い知ってるよな、みたいな小学生でした。光GENJIの真似をする、目立ちたがりのひょうきんな子。とんねるずさんを見て芸能界に憧れましたけど、なれるわけないし、プロ野球選手になるのが夢でしたね」

 小学生で地元のチームに入り、阪神タイガースを応援し、実業高校に進学して野球部に所属。野球漬けの日々を送った。

「流石にプロにはなれないし、大学に行くなら一浪は当然だろうと。でも実家はそこまで裕福じゃないから、就職することにしました。毎年野球部から何人かお世話になっている車のメーカーが『庄司くんだったら』と言ってくれて」

 社会人になった庄司さんだが、入社3日目にしてショックを受ける。

「同期には四大卒、短大卒、専門卒がいて、特に四大卒は『やったるぜ!』とキラッキラして見えたんです。高卒の自分は隅っこにいるのに、職場の綺麗なお姉さんは四大卒とばっかり話してる(笑)。全部見えちゃったんです、これからのポジションが。転職してどこに行ってもこんな感じだろうし、それなら子供の頃にぼんやり憧れた芸能界に挑戦しようと」

 やると決めたら即行動。会社に勤めつつ、劇場に足を運んでみることにした。

「初めてホンジャマカさんのライブを見に行ったんです。痛いダウンタウン信者だったので、まあ見てみるか、みたいな失礼な感じだったんですけど、登場した恵さんを見て『本物だ!』って感動しちゃって(笑)。もうコントが面白すぎて、ずっと爆笑してたんですよ。ナインティナインさん目当てで見に行った銀座7丁目劇場でも、知らない芸人がめちゃめちゃ面白い。そこから気持ちが加速するんです。なりたいなりたいって」

 ナベプロ(現・ワタナベエンターテインメント)にネタ見せ会があると知りコンビを組もうとしたが、地元の友達も高校の同級生も全滅。大阪にある吉本興業の養成所NSCに入ろうかとも考えたが、標準語はバカにされると思い断念。そんなとき、オーディション雑誌で「NSC東京1期生募集」の広告を発見する。1995年、東京にNSCがやってくる!

「これだ、これしかない! と思いました。大阪の1期生がダウンタウンなんだから、東京の1期生になれば俺もダウンタウンになれる。そう本気で思ってオーディションに行きました。グループ面接ではいろんな人がいて、服をバッと脱ぐと油性マジックで乳首をぐるぐるに描いていた女の子も。冷静に『着てください』って言われてましたけど(笑)。僕はネタもないので『コンビを組みたいです。相方と面白いことやります』と言っただけ。でも受かったんですよね。それで会社を辞めてNSCに入りました」


AT THE AGE OF 20


品川庄司
写真はNSC東京時代、事務所対抗ライブに出場する品川庄司のお二人。「ナベプロにはビビる大木さんがいて、人力舎には北陽や当時マンブルゴッチというスタイリッシュなコンビを組んでたゆってぃが。今や中堅芸人になった、錚々たるメンバーと戦ってましたねえ」。笑いの基本は劇場から。渋谷公園通り劇場にも足を運んだそう。「在学中に『今田耕司のシブヤ系うらりんご』が始まって、毎日夕方に劇場から生放送をしてたんです。NSCのバッジを見せると観覧できたのでよく品川と観に行きました」

 「やってみっか」でコンビ結成。
 NSC卒業後は銀座7丁目劇場へ。

 募集に500人以上の応募があり、半数の約250人が合格。1年目の東京NSCってどんな空気だったんだろう。

「銀座7丁目劇場の舞台と客席が教室でした。放送作家さんにネタ見せをして、ボイストレーニングとダンスを習う。みんなダウンタウンさんを真似て『ダンス寒いなあ』とか言って出席率が低くて(笑)。僕は仲いい芸人もいるから行こっかって感じでわりと出てました」

 ピンで入学した生徒たちは、コンビを組むために積極的に声をかけ合った。

「何人かに『組まない?』と言われて、モテモテだったんですよ。俺も値打ちこいて『考えさせて』とか言って(笑)。その中に品川(祐)がいて、『ネタ書いてきたからやらない?』って。でも俺、そのタイミングで地元の友達と前々から計画してた伊豆旅行に行っちゃったんです。あれだけ意気込んで入ったくせにね。帰ったら品川は別の子とネタをやってたから、ああこの人とコンビ組むんだなと。切り替えて授業のたびに相方を替えてました」

 しかし、品川さんは相方とウマが合わず、コンビは解散。ナベプロに移ろうか悩む品川さんに、同期の高尾山さんが「辞めるなら庄司くんとやってみたらいいんじゃない?」と声をかけた。

「忘れもしない『森永ラブ』ですよ。品川がハンバーガーを齧りながら『やってみっか』って。早速ネタ合わせをして先生に見せたらウケて、お客さんの前でやる1分ネタライブでもアンケート1位に。それで選抜クラスに入りました」

 今でこそ温和な品川さんも、当時はギラギラしていた。3歳年上の相方を、庄司さんはこんなふうに見ていたそう。

「ある日、基礎クラスの授業前に『お前ら才能ないんだから辞めろ!』って叫んでる品川を見たんです(笑)。基礎クラスの子にしてみれば一回ウケただけでいきがってんじゃねーよって感じでしょうけど、でもなんだろう、ダウンタウンさんの影響でお笑いのカリスマは毒っ気があるものと思ってたし、相方がかますのを『しびれる~!』と思って見てました(笑)」

 卒業後、銀座7丁目劇場のゴングショー「お笑い虎の穴TOKYO」に挑戦しストレートで合格。レギュラーになり、ロンドンブーツ1号2号と出会う。当時すでにテレビで人気だったロンブーが登場すると、劇場が満員になったという。

「はあ? NSC東京? みたいな先輩もいたと思うんですけど、ロンブーさんは『初めて後輩ができた!』ってかわいがってくれたんです。最初は社交的な品川が飲みに行き、『庄司もいいすか?』って誘ってくれて、やがて僕は(田村)淳さんとよく遊ぶように。もうすべてを教わりました。スタッフさんとの話し方、前説のやり方、人付き合い。さらにはクラブも、コンパも、ナンパも、すべてです。だから僕も淳さん同様、テレビに出るようになったらすぐ渋谷のTSUTAYA前に行って、遠くまで見渡せる高い所に立って女の子を探してました(笑)」

 まだ関西の色も薄く、劇場で興った笑いがテレビへと移りゆく黎明期。そのど真ん中にいた自分を一言で表すなら?

「激イタでしょう(笑)。ネガティブじゃなくてポジティブな激イタ。品川がネタを書いてるのに根拠のない自信がありましたから。よくあんなにエネルギーがみなぎってたなって思います。先輩に呼ばれたら出かけて、芸も遊びも全部吸収して。熱量も高かったし、あの頃のおかげで今があると思います。だって淳さんと出会わなければ、もっと言えば淳さんが渋谷109の前でミキティを見つけなければ、あんなにかわいい奥さんと結婚できなかったですからね」

庄司智春さん

プロフィール

庄司智春

しょうじ・ともはる|1976年、東京都生まれ。1995年、相方の品川祐と品川庄司を結成。『水曜日のダウンタウン』など数々のバラエティ番組に出演する他、映画『OUT』でも熱演。YouTube『ハロー! 品庄チャンネル』配信中。同『ハロー! ミキティ』では編集も手掛ける。

取材メモ

〈UNITED ARROWS & SONS by DAISUKE OBANA〉のセットアップに、〈N.HOOLYWOOD〉×〈UGG〉のシューズで登場。服好きな芸人は多いが、2003年に雑誌『Boon』の表紙を飾った第一人者が庄司さんだ。「昔から芸人さんの服も見てました。ノリさん(木梨憲武さん)が着てたセントルイス・カージナルスのTシャツを、渋谷の『バックドロップ』に探しに行ったり、就職先でも松本(人志)さんが着てた〈ポール・スミス〉のスーツを選んだり」