カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/武田砂鉄

2022年10月13日

photo: Takeshi Abe
text: Neo Iida
2022年11月 907号初出

ささやかな連載を抱え、
映像制作会社でバイトをする日々。
終電を逃したら、夜の六本木を歩いた。

武田砂鉄

 型にハマった現代社会を解きほぐす『紋切型社会』に始まり、トランプ大統領や街場の声を収集した『今日拾った言葉たち』に至るまで、武田砂鉄さんの綴る文章にはいつも批評の眼差しがある。毒もあれば笑いもあって、読者によりそう筆致が心地よい。経歴をかいつまめば「大学卒業後、編集者を経て2014年に独立。フリーライターに」になるけれど、実は砂鉄さんは、大学在学中から雑誌に連載を持っていたという。

「昔、西新宿にブートレッグ街があったんです。隠し撮りした音声テープが6000円くらいで売られていて、ワゴン売りの500円くらいの音質の悪いテープをよく買いに行ってました。その頃読んでいたブートレッグ専門誌の『ビートレッグマガジン』に、ライター募集の広告が載ってたんです。自分は18歳で、誌面で書いているライターよりもずっと若いし、もしかしたら引っかかるんじゃないかと。今思うと生意気ですけど、『ロックは前衛的で今を映し出すものなのに、ツェッペリンがどうだとかクラプトンがどうだとか、違うんじゃないですか?』って挑戦的に書いて応募したんです。そうしたら編集長から電話が来て」

 代々木の編集部に行くと「半ページあげるよ」。大学生にギャラが支払われることも嬉しくて、試行錯誤して書いた。連載枠はやがて1ページに拡大した。

「2000字の原稿って、今ならそれほど時間をかけずに書けますけど、当時は悩み続ける何日間を経た記憶がありますね。こんなんでいいのかな、もっと深く書けるんじゃないかなと思いながら、自分なりに社会批評みたいなものと、カルチャー批評みたいなものを織り交ぜて。色々考え続ける時間が誇らしくもありました。年に1回ほどの集まりでは、サラリーマンの傍らライターをしているおじさんたちに可愛がってもらって。コアなブートレッグCDをたくさんもらいました」


AT THE AGE OF 20


バイトと原稿執筆に明け暮れる他に、CINRAの立ち上げにも参加していたという。写真は幡ヶ谷にあった現社長の杉浦さんの家の近くのアパート。屋上のプレハブを事務所にしていたという。「杉浦は高校の同級生で、生徒会長をやるようなタイプでウマが合わなかったんです。でも大学でうまくいってない連中で集まるようになってCINRAが始まって。最初はフリーのCD-Rマガジンだったんですよ」。制作にあたり、砂鉄さんが名義的に編集長に。15号ほど関わり、就職で担当を代わったという。

 そもそも砂鉄さんは、学生時代から文章を書くのが得意だったという。頼まれて同級生の読書感想文を書いたことも。

「読書感想文というものは、最後の200字で強引にまとめれば発想力や転換力を褒めてもらえるもの。最後を外さなければ大丈夫だろうと思ってました。そのかわり英語の解答見せてもらったりして」

 中学と高校は、実家から近い東村山市にある明治学院の一貫校に通っていた。白金にある明治学院高校と運営をともにするプロテスタントの私立校だ。

「自分たちのほうが中高一貫なのに、高校だけ東村山って地名が付いてるから、あとにできた白金の明治学院高校のほうがメインっぽくて、ちょっとコンプレックスっていうか。年に1回合同礼拝で白金に行くときも、『田舎から遠路はるばる来たな』って蔑むような目で見られてる感じがして。こっちこそオリジナルだぞって思ってました」

 放送委員だった砂鉄さんは、気になる体育科の先生に「どうしていつもパソコンで麻雀してるんですか?」とロングインタビューを敢行。BGMやナレーションを付けて放送したという。

「オモシロ担当として生き残るというか、みんなを楽しませることを考えてました。文化祭でコント同好会を作って、キリスト教をネタにして怒られたり(笑)。旧約聖書と新約聖書の名シーンを合わせて、キリストが水面を歩いているときにモーセが海を割って股が裂けるってコントをやったんです。先生の大半がクリスチャンだから、絶対怒られるんですけどね」

 一方で、洋楽にも興味を持つように。きっかけは、東京FMで放送されていたB’zのラジオ番組『B’z BEAT ZONE』だ。

「松本さんはRock’n Roll Standard Club Bandというハードロックやクラシックロックのカバーバンドもやってて、よく’70 年代ロックを流していて。ああ、松本さんこういう音楽好きなんだと思って、図書館やレンタル店でCDを借りてました」

『ロッキング・オン』や『ミュージック・ライフ』など音楽雑誌の投稿欄には熱い論考が載っていた。砂鉄さんもハードロックやヘヴィメタルを扱う『BURRN!』のレビュー欄に投稿を始めた。音楽評論家の伊藤政則さんのラジオでもハガキが読まれ、「こんな音楽聴いてるのか。ホントかよ!」と若者の意見を面白がってくれた。

「すごく嬉しかったです。学校でも『お前らはノコノコ暮らしてるけど、俺はハガキを読まれてるんだからな』っていう自意識で、健やかに暮らしていましたね」

 大学の入学式の数日前、4月5日発売の『BURRN!』に、投稿した文章が初めて掲載された。その後、早々に大学に馴染めないと気づいたときには、すでに「こっちでやっていこう」という自信があったという。いろんな場所で書きたい、という思いは、さらに別の扉を開ける。新星堂で見つけた『ミュージックフリークマガジン』というビーイング系のフリーペーパーのバイト募集に応募し、関連の映像会社から声をかけられたのだ。書く仕事に繋がれば……と、麻布十番の裏手にある会社へ。そこではビーイング所属アーティストのMV制作や、スカイパーフェクトTVの番組などを手掛けていた。

「『武田、こっち来てくれ!』って毎日あちこち呼ばれて、なんで映像の世界目指してる青年みたいになってるんだろうって思いながら働いてました。同世代のカメラマンも『頑張ろう!』みたいな感じで、そういうつもりじゃないんだけどなあって(笑)。でも刺激的でしたよ。人員が少ないから好きなミュージシャンのライブでカメラを回したこともありますし」

 実家は西武園ゆうえんちの近く。終電を逃したら始発まで時間を潰すしかなかった。持て余したら、六本木まで散歩に出る。今でこそ街灯もビルも増えたが、その頃の夜道は真っ暗だったという。

「高級住宅街で、みんな車で帰るから人通りもなくて。会社の近くの会員制クラブに、よく政治家みたいなおじさんと綺麗なお姉さんがいるんです。先輩はふざけて『石鹸の匂いがした』とか言うし、何が行われてるんだろうって思ってました」

 急勾配の坂道をのぼり、鳥居坂を抜けて大通りに出ると、今よりもガチャガチャで猥雑な六本木の夜が広がっていた。

「あの頃は『青山ブックセンター』が深夜まで開いてたので、よく立ち読みしに行きました。夜中に吉野家で牛丼を食べるだけでも楽しくて。会社に戻ると作業してる人たちがいて、なんとなくカッコいい社会に入り込んだ感覚がありました」

 中高の頃から漠然と抱いていた、メディアに触れてみたい、という思いは叶いつつあった。でも悶々とした思いはくすぶっていて、なんとかこの思いをエネルギーに変えようと考えていたという。

「2002年に日韓共同W杯があって、僕は試合当日も働いてたんです。大量のVHSを運んでいたら、六本木通りがユニフォームを着た人だらけで、大声で騒いでたんです。そこで通りすがりの兄ちゃんに『なんでハイタッチしねえんだよ!』って怒鳴られて。両手がふさがってるからできないんですよ。もう嫌だ、ハイタッチなんて絶対しないと思いました。一時の空気に流される人間にはなりたくないと」

 その間も月1回の『ビートレッグマガジン』の原稿は欠かさず書いた。連載は、砂鉄さんが就職してからも秘密裏に行われ、フリーになり、雑誌が休刊する2016年まで14年の長きにわたり続いた。

「若い新人に書く場所を与えてくれたことは、本当に感謝していますね。批評性も、『ビートレッグマガジン』で培ったような気がします。〝尖ったことを書く〟という行為そのものを教えてもらいました」

プロフィール

武田砂鉄

たけだ・さてつ|1982年生まれ。出版社勤務を経て、2014年よりライターに。『アシタノカレッジ』(TBS・金曜パーソナリティ)に出演。著書に『マチズモを削り取れ』(集英社)、『べつに怒ってない』(筑摩書房)など。最新刊は『今日拾った言葉たち』(暮しの手帖社)。

取材メモ

凶悪事件とかコロナとか、有象無象の社会問題にぶちあたるたびに、頼れる言説がなくて辛い。テレビも新聞もアテにならないや、なんてときの駆け込み寺が、自分にとっては砂鉄さんだったりする。圧倒的な文章力でぶん回してくれると心が整うから、言葉は偉大だ。だから取材前は緊張したけれど、「昔のCINRAのオフィスのエレベーター、扇風機の蓋が外れてて髪がジャギジャギになっちゃったんですよ」なんて話も。楽しい取材でした!