カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/水道橋博士

2021年12月9日

photo: Takeshi Abe
text: Keisuke Kagiwada
2022年1月 897号初出

人生は自分を主人公にした一冊の本。
その伏線になるような出来事を
たくさん経験した赤貧の修業時代。

このままじゃいけない。
その気持ちを抱えて弟子志願。

「『人生に期待するな』と本書に書かれた最後の1行を読み終えると、俺は、まるで天からの啓示のように、この人の下に行こうと決心した」

 自著『本業』において、ビートたけしさんの自伝的エッセイ『たけし! オレの毒ガス半生記』読了時の衝撃をそう振り返るのは、水道橋博士だ。博士がその名を授かる5年前、19歳のときの話である。

「当時の俺はすごく正義漢だったんですよ。いじめとかも大っ嫌いだったし。だから、社会の不正をただすルポライターになりたかったんです。でも同時に、自分には最後まで正義を貫けない弱さがある、要は臆病者なんじゃないかという気もしていて。思春期はそういう自問自答をずっと続けて、それで引きこもりになった時期もありました。そんなときに出会ったのが、たけしさん。たけしさんは『全然ウケないな』とか『30年も売れてない芸人がいるんだよ』みたいな話で人を笑わせるわけですよ。つまり、芸人っていうのは売れなくても、ウケなくても、最終的にそのことで笑ってもらえる。これは出口しかないし、負けがない。そう思ったとき、『この人のところに行けば人生が開けるんだ』と思ったんです」

 この〝啓示〟に背中を押され、それまでまったく手を付けてなかった受験勉強も開始した。晴れてたけしさんの出身校である明治大学に受かり、地元の岡山から上京したのは二十歳になる年。しかし、付属校上がりの東京の生徒と大喧嘩をして、大学へは4日しか行ってない。その後、しばらくはパチンコや麻雀に明け暮れるならず者のような暮らしだったそうだが、たけしさんのところへ行くという当初の目標はどうなったのか。

「実は上京してすぐ、弟子入り志願をするために、たけし軍団が草野球をしている多摩川グラウンドまで行っているんですよ。でも、そこにヘルズ・エンジェルスみたいな風貌の志願者がいて、『これは勝てないな』と思って断念しちゃったんです。その人は、のちのグレート義太夫さんだったんですけど」

「飛び出したいけど、飛び出せない、〝ごきぶりホイホイ〟の中にいるような気分だった」。この数年間のことを博士はそう振り返る。ようやく一念発起できたのは、23歳のときだった。

「このままじゃいけない、何のために東京へ来たんだって思ったんですよね。それで毎週木曜日、『オールナイトニッポン』終わりのたけしさんをニッポン放送の前で出待ちして、弟子入り志願するということを始めました。その中には、玉袋(筋太郎)もいました。まぁ、彼は同級生2人と既にコンビを組んでいて、たけしさんのラジオに素人として出演することもあったから、〝ドラフト1位の人〟として接していましたが。ただ、当時のたけし軍団は志願者が多すぎて、もう取らないと言っていたんですよ。門が開かれるのは翌年4月です。『痛快なりゆき番組 風雲! たけし城』の放送スタートに際し、城を守る兵隊役が必要だということで、その日に来ていた弟子志願者が全員採用されて。ようやくたけし軍団に潜り込むことに成功したんです。俺の人生で一番嬉しい瞬間でしたね。だから、あとはある意味で〝余生〟を生きているような気持ちがあります」

 かくして幕を開けたのは、〝余生〟にしてはハードすぎる日々だ。『たけし城』では、本人いわく〝お笑いモルモット〟として数々のゲームで体を張らされた。水道橋博士という名前が付いたのも、同番組のゲームに参加していたときだったそう。

「ゲームの中で走っていたら、たけしさんが『出ました、水道橋博士』って言っていて、『あ、俺は水道橋博士なんだ』と知ったんです(笑)」


AT THE AGE OF  20


写真は20代の頃の水道橋博士と玉袋筋太郎さん。グルメ番組や温泉番組は断っていたというほど、当時はトガっていた。変化が訪れたのは、ダウンタウンの実物を目の当たりにした27歳のとき。「戦慄しました。俺はお笑いに強弱があるって言い方をするんですけど、こんなに強い人がいるのかって。制空圏があっという間にできて、この人が言うことは何でも面白いってムードをつくってしまうんです」と博士。これがきっかけで、丸くなっていったそう。

フランス座修業でついた芸人としてのいい匂い。

「フランス座に行く奴いないか?」。収録終わりの控室でたけしさんが弟子たちに聞いたのは、そんなある日のこと。フランス座とは、たけしさん率いるツービートが売れる前に修業を積んだストリップ小屋だ。かねてよりフランス座に憧れがあった博士は、既に漫才コンビを組もうと心に決めていた玉袋さんと一緒に速攻で挙手する。と、つられるようにその場の全員が手を挙げたというから、まるでダチョウ倶楽部のお家芸のよう。結果として、新人5人が「浅草キッドブラザーズ」という名のもとにフランス座に送り込まれることになった。

「軍団には16人もいたから、俺たちの出る幕なんてないわけですよ。そのおこぼれに与るような生き方をしないためには、芸を身につけるしかない。フランス座に行きたかったのは、そういう気持ちもありました。ただ、壮絶な貧乏を味わいましたけど。なんせ舞台に立ちながら劇場の雑用もし、それが終わったら系列のスナックで働かされて、それで1日1000円しかもらえませんでしたから。でも、それは望んでいたことでもあるんです。そういうことこそしたかった。たけしさんも『フランス座にいると、芸人としていい匂いがつくからいいよ』と言われていましたけど、ものすごい貧乏になったり、踊り子さんと恋愛したりという経験をひと通りしたことは、今の浅草キッドに確実に影響を与えているとは思いますね」

 しかし、2年の予定だったフランス座での修業は、経営方針の変更により7か月で終止符が打たれる。それからは玉袋さんと浅草キッドとして活動しつつ、軍団全員の身の回りのサポートをしたり、ダンカンさん専属の付き人をしたり忙しく過ごした。ダンカンさんが放送作家をしていたため、博士も作家見習いを始め収入も得たが、玉袋さんに「漫才はどうするの?」と詰め寄られたことで方針転換。ダンカンさんに直訴して作家から足を洗い、漫才に専念することに。

「そのとき目標にしていたのが、たけしさんがツービートとして売れるきっかけになった2時間の漫才をライブですること。実現したのは、翌年ですかね。事前に各種新聞やテレビ局に『ビートたけしの漫才弟子第1号がライブを行います』とFAXを送り、結果として翌日の新聞で大きく取り上げられることになったんですよ。自分がお笑いの素材として優れているとは思わないけど、こういう自己プロデュース能力みたいなものはあると思っていて、それを証明できたなと」

「ただ」と博士は言葉を継ぐ。「これだけ成功しても、軍団に戻ればまた殴られるんですけど(笑)」と。

「結局、人生って風景が一変するかもってことを成し遂げられたと思ったら、また振り出しに戻るってことの繰り返しで、それはこの後も何度も経験しています。ただ、それも含めて俺は人生の伏線だと思っているんですよ。人生は自分を主人公にして書かれた本で、人生100年時代だとしたら前半の50年に張られた伏線が、50歳以降に回収されていく。だから、今は伏線を回収している最中なんです」

プロフィール

水道橋博士

すいどうばしはかせ|1962年、岡山県生まれ。1987年に玉袋筋太郎と浅草キッドを結成。数々の賞レースをものにする。文筆業にも力を入れており、主な著書に『藝人春秋』シリーズ、『はかせのはなし』『長州力 最後の告白』など。最新著は『藝人春秋Diary』。

取材メモ

水道橋博士と命名されてから2年目の26歳のとき、博士はその名前の変更をたけしさんに直訴したという。理由はインテリっぽいイメージが嫌だったから。ちょうど『オールナイトニッポン』で亀頭白乃助という名の弟子志願者が引退したので、二代目亀頭白乃助に改名し、襲名披露も行われた。そのまま半年ほど活動したものの、事務所やテレビ局に「その名前じゃ使えない」と怒られ、ふたたび水道橋博士に戻って現在に至る。