カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/宮藤官九郎

大好きな演劇に関わりたくて上京した青年が、革命的なドラマを手掛けるまで。

2021年7月22日

photo: Takeshi Abe
text: Keisuke Kagiwada
2021年8月 892号初出

 東京のエンタメ界に片足突っ込んだ二十歳の夏。

 池袋に降り立つといまだに心拍数がちょっとだけ高くなるのは、ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(以下、IWGP)のせいだ。不良たちのエクストリームな青春を描いたこのドラマのインパクトは、それほどまでに強い。脚本を手掛けたのは、これが連続ドラマデビュー作の宮藤官九郎さん。当時、29歳だった。

「演出の堤幸彦さんが書き手を探していたみたいで、プロデューサーの磯山晶さんから僕にも『試しに書いてみない?』って声がかかったんですよ。それで1話だけ書いてみたら、気に入ってもらえたみたいで、全話書くことになったんです。『キレイ』っていうミュージカル公演の真っ最中だったので大変だったのを覚えています。でも、キャストを見ると主演の長瀬智也くん以外は、まだ有名じゃない人も多かったし、『〝これからの人〟を集めて自由に作るんだな』と思って、僕も思いついたことはすべて詰め込みました」

 その後の宮藤さんの活躍は言わずもがなだが、『IWGP』以前はどんな道のりを歩んでいたのだろう。時計の針を二十歳の頃まで戻してもらった。

「このまま勉強してて意味あるのかなぁと思ってましたね」

 エンターテインメントに携わるべく、宮城から上京して日本大学芸術学部に入学したものの、そんなモヤモヤが拭えなかった二十歳の夏、宮藤さんは大学の掲示板に一枚の張り紙を発見する。当時、WAHAHA本舗に所属していた村松利史さんがプロデュースする公演『神のようにだまして』のスタッフを募集しているという。宮藤さんが迷わず応募したのは言うまでもない。

「僕は小道具を作る係で、作業をWAHAHA本舗の稽古場でやっていたんですけど、あるとき、夜中に梅垣義明さんが急に現れて、『ちょっとネタ見てくれないかな』って言うんですよ。中島みゆきの『化粧』を流しながら、生卵が入ったショットグラスを100個くらいひたすら飲み続けるというやつだったんですけど、終わって『どうかな?』って(笑)。『面白いですね』と答えたのを、今でも強烈に覚えていますね。『やっと東京のエンターテインメントに片足突っ込んだんだな』って(笑)」

 そんな感慨に浸りながら、稽古場の外で宮藤さんが小道具の準備をしていたあるとき、たばこを吸いに来た男性が急に問いかけてきた。「君はさ、何がしたいの?」と。同舞台の脚本を手掛け、出演もしていた松尾スズキさんだ。つまり、のちに宮藤さんが所属することになる劇団「大人計画」の主宰者なわけだが、そのファーストコンタクトはとても残念なものだったらしい。

「そのとき僕は、マネキンにラッカーを吹きかけていたんですよ。何に使うのかも知らないまま(笑)。そんなときに聞かれたもんだから、『別に……』って答えちゃったんです。松尾さんはそれに対して『ふーん、そっか』と言われて、最初の会話は終了。『やっちゃったかな』とは思いましたけど、たしかにそのときは何をやりたいか定まってなかったんですよ。作家になりたいとも、役者になりたいとも思ってなくて、ただ、演劇に関わりたいだけだったので。バンドもやっていたし、いろいろお試し中だったから、そう答えちゃったんでしょうね」

 あらゆる退路を絶ち、〝大人になる計画〟を実行。

 という次第で、千載一遇の〝売り込みチャンス〟を逃した宮藤さんだったが、演劇との関係まで途切れたわけではない。この公演の後、舞台の裏方の仕事をいくつも紹介してもらった。しかし、イッセー尾形さんの一人芝居や関根勤さんが座長を務めるカンコンキンシアターなど、ありとあらゆる舞台を袖で目の当たりにするうちに、宮藤さんは思う。やっぱり大人計画なんじゃないか、と。折しも、大人計画の公演を観に行くと、チラシの裏に「文芸部募集」の文字がある。「これだ!」と確信し、書いてある番号に電話をかけると……。

「松尾さんが出たんですよ。『別に……』って言っちゃったし気まずいなぁと思いながら、覚えてないだろと思って『文芸部って何をするんですか?』と聞くと、『台本を書いたり演出したりすんだよ。入りたいなら、何か書いて持ってきて』と言われて。それで初めて戯曲を書いたんです。なんで大人計画だったかというと、当時はまだちゃんとした役者がいなかったんですよ。温水洋一さん以外は、『この人たちどうやって生活しているんだろうな?』って人ばっかりで、それがよかったんです(笑)」

 ところで、宮藤さんがこの電話をかけたのは、幕張で準備が進んでいた、とある展示会の会場だったという。

「その頃は、舞台の裏方以外にも、モーターショーやボートショーの設営のバイトもやっていたんですよ。その給料がすごくよくて、割と貯金ができちゃって。これじゃマズい、このままじゃこっちの世界に行っちゃうなと思って、幕張の展示会場から電話をしたんです」


AT THE AGE OF 20


宮藤さんが設営のバイトで行った現場には、音楽番組『ミュージックフェア』もあったという。「でっかいパネルを1人で運ばなきゃいけないんだけど、立ち止まると倒れるから走らなきゃいけないんですよ。それでいて、いろんな人の背後を通らなきゃいけないから、『わー!』って叫ばなきゃいけなかったんですよ。未だにあの番組を見ると、そのときのことを思い出します」。写真は居酒屋でふざける二十歳の宮藤さん。

 晴れて宮藤さんが大人計画の文芸部に入ったのは、1992年。松尾さんが大人計画をとにかく活性化させようとさまざまな試みにチャレンジしていた時期と重なったため、とにかく忙しかった。

「家にはほぼ帰れず、松尾さんが倉庫にしていた下北沢のアパートで寝泊まりしていましたね。常に3、4本の公演を抱えていました。それで大学に行けなくなっちゃったんです。往生際は悪いから、4年までは籍を置いていたんですけど、そろそろ先のことを考えなきゃマズいと思って、親に相談してまず1年間休学させてもらったんです。そしたら、松尾さんに『劇団員になる?』って言われちゃって。でも、今から大学に行っても駄目だなと思ったし、演劇でもなんとかなるんじゃないかなと思えたんで、大学を辞めました。24歳のときですね」

 退路を断った宮藤さんは、さらに大胆な行動を起こす。かねてお付き合いしていた女性と結婚をしたのだ。そのことについて宮藤さんは「すごく焦ってたんでしょうね。地に足をつけよう、社会人っぽくしようと必死だった」と振り返る。大人計画への入団と同時に、宮藤さんはまさに〝大人になるための計画〟を実行しまくっていたというわけだ。劇団の外でもバラエティ番組や深夜ドラマに作家として携わり、実際に「なんとかなった」と思えるようになり始めたのが、『IWGP』の脚本家に抜擢された20代最後の年だった。

「振り返ってみると、20代って何かを辞めたり諦めたりする発想が、まったくなかったですね。全部やってやろうと思っていた。何かを書いてみたり、8㎜カメラで映画を作ってみたり、バンドを組んでみたり……。そうやって20代で始めたことが、30代で形になっていった感じです。いっぱい失敗もしたけど、『あれは失敗だったな』って思うことで、次に行けていましたし。だから、20代でやれることは、全部やったかな。あ、大学卒業だけは別ですけどね(笑)」

プロフィール

宮藤官九郎

くどう・かんくろう|1970年、宮城県生まれ。主な脚本作に『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』『あまちゃん』『俺の家の話』など。8月9日より作・演出を務める舞台『愛が世界を救います(ただし屁が出ます)』がPARCO劇場で公演。

取材メモ

宮藤さんが作・演出を手掛ける舞台『愛が世界を救います(ただし屁が出ます)』は、2055年の渋谷で出会った、特殊能力を持つ男女の物語だ。同作について「テーマは『生きてるっていうことでもういいじゃん』です。東京の人口が戦争で激減した中、生き残った人たちの話。主人公は特殊能力は持っているけど、使うと屁が出るから封印していたり、みんな悲しい人たちなんだけど、それでも生きてたらいいじゃんってことを伝えたい」と宮藤さん。