CULTURE

二十歳のとき、何をしていたか? / 長州力

2021.05.26(Wed)

photo: Takeshi Abe
text: Takahiro Inoue
2020年10月 883号初出
※文中の年齢や年代は2020年当時のものです

布団を抱えて降り立った東京駅。夢だったオリンピック出場に向け、練習とアルバイトを繰り返す日々。

革命前の意外な一面。レスリングとの邂逅。

昨今のリバイバルブームから外すことができない1 9 8 0年代。熱さとパワーに満ち溢れる時代に突如現れたひとりの男を世の人々は「革命戦士」と呼んだ。長州力さんはプロレスを通じ、熱狂の時代をともに生きる〝新人類世代〟の旗頭となって時代を切り裂いていた。

 2 0 1 9年のプロレス引退後、現在はタレントとして、テレビ、C M出演に引っ張りだことなっている長州さん。『相席食堂』でのグルメリポートで生まれた「飛ぶぞ!」のフレーズなど、その言語感覚は我々が想像する斜め上をいく。

 そんな長州さんの20代には、華々しい舞台で活躍する姿からは想像もつかない、スポーツアスリートとしての一面が存在していた。そのルーツを探るために、話は故郷・山口県で過ごした少年時代まで遡る。

「レスリングを始めたのは中学3年の終わりくらい。それまでは柔道をやっていたんですよ。まだレスリングはそんなに流行ってもいなかったけど、近所でレスリングを子供たちに教えてくれる道場があったんですよ。そこはもともと質屋さんで、建屋の2階を改造してマットを敷いててね。夏休みになったら近所の子供たちがそこに集まるから、自分もパンツ一丁の格好で遊びに行ったんですよ」

 山口県柳井市にある斎藤道場は、全国で初めて少年たちにレスリングを指導したことでも知られる日本最古のレスリング道場である。長州さんはここでレスリングの原点に触れ、高校に進学してから本格的に競技生活を始めた。もともと運動神経は抜群。高校3年時にインターハイ準優勝、国体優勝の好成績を収めると、たちまち強豪大学からスカウトの声がかかった。

「今でも思い出すよ。山陽本線の『あさかぜ』に乗ってね。寝台列車だよ。体育寮で使う布団を抱えてさ。親からもらった3万円を腹巻きのなかに入れてね。それで東京駅に着いたはいいけど、出口がわからないんだよ。しかもちょうど朝の通勤ラッシュ。誰に聞いたって『ああ、こっち』と言ってはくれるけどそれがどこかもわからない。布団を抱えたまま駅の構内を30分以上も歩き回ってね。アレは本当にまいったよ」

 地方出身者が上京すれば避けては通れない最初の洗礼をご多分に漏れず受けた。都会で目にする光景はどれも新鮮。かつ刺激溢れるものばかりであった。

「大学に入った頃はちょうど学生運動の真っ只中だったんですよ。あるときは体育寮にまで学生がなだれ込んできて、俺たちに向かって『お前らは大学の犬だ!』って罵倒してきてね。それで道路を隔てて少し離れた別の大学のほうからは煙があがっている。本当にめちゃくちゃな時代でしたよ」

専修大学時代の長州さん。

時代に翻弄されながらも、生きることに必死だった。

スカウトを受けて進学した専修大学は、オリンピックを目指す実力者たちが数多く揃ったレスリング強豪校。ライバルたちとしのぎを削ってきた長州さんは、二十歳のときに念願だったミュンヘンオリンピック出場を果たすこととなった。

「オリンピックを目指した理由? あれは昭和39年の東京オリンピックですよ。俺が中学1年生のとき。テレビで開会式を見てたら真っ赤なブレザーを着た日本の選手団が入場してきてね。今とは違って当時はまだ軍隊式行進で入場してくるからキレイに揃っていてね。それを見て、『おー、カッコイイな!』って子供心に思ったんだよ。それでなぜか知らないけど、『ああ、俺もオリンピックに出てみたいな』って思ったんだよな」

 あのとき見たオリンピック出場の夢が叶おうとしている一方で、いち大学生だった長州さんの生活は入学時から変わらず。そこで、ある問題が起きてしまう。

「強化合宿に行く費用がないんですよ。当時は合宿もみんな自腹。そうなったらアルバイトをしなきゃいけない。深夜から朝にかけて道路の側溝の蓋をふたりがかりで引き上げていく力仕事でもらった日当が4 0 0 0円。寮でのひと月のメシ代が6 0 0 0円だったから、バイトとしてはとても良かったけど、それだけでは足りない。とにかく稼ぐしかなかった」

 日中はレスリングの練習、夜はバイト。一日のなかで拘束されている時間のほうが長い日々。流行りのファッションや音楽には疎かったが、空いた時間があれば決まって楽しむ趣味があった。

「日直に当たらなかったら、朝一番のバスで向ヶ丘遊園駅まで行って、そこから小田急線に乗り継いで新宿まで行ってましたよ。映画館で洋画を1本見て、ちょっと贅沢をしようかなと思ったら西口のしょんべん横丁に行ってクジラのカツを食べる。それが一番の楽しみでしたね」

在日韓国人2世として生まれ育った長州さんは、日本国籍を持っていなかったためにオリンピックの日本代表になることができなかった。「全日本を獲ったのに国籍のことでぶつかるでしょ。まあ、大学2年のときに全米選手権で優勝したときも一度ぶつかってるんだけどな」。それでもオリンピック出場という子供の頃からの夢を諦めきれなかった長州さんは、韓国代表として1972年のミュンヘンオリンピック出場を果たすこととなった。現地で撮影した写真のなかでジャージに「NIPPON」の文字がないのはこのためだ。

 激動の時代とともに過ごした大学4年間は振り返ればあっという間だった。1 9 7 4年、オリンピック出場の実績をひっさげて新日本プロレスに入団。憧れて飛び込んだ世界、というのとは少々事情が異なり、プロレスの道を選んだのは生きていくためだったのだ。

「初任給は月給で7万~8万。『えっ、こんなにもらえるんだ!』って驚いたよ。合宿所に住めるし、ジャージとか着るものももらえて、肉だって毎日食える。これでいったいなにが不満だっていうんだ。不満なんかなにもありませんよ」

 生きていくには十分すぎる環境。本人もそこに不満はない。ところが、その思いとは裏腹に、プロレスラー長州力としての20代後半は、周囲の期待に応えることができず伸び悩む日々の繰り返し。新日本プロレスの黄金時代とともに長州さんがブレイクを果たしたのは30歳を過ぎてからであり、意外にも遅咲きであったのだ。

 そんな長州さんに「二十歳のときにこれだけはやっておいたほうがいいことってありますか?」という質問をあえてぶつけてみた。

「あー、ないね。うん、ない」

 らしい返答といえばらしいけれど、それでは困る。すると長州さんは口を開いた。

「あまり難しいことを考えなくても、生きていけることは間違いないよ。でも、ひとつだけ守るものがあるとすれば道徳だろうな。そこだけは絶対に踏み外しちゃいけない。これは子供だろうと大人だろうと一緒。それさえきちんと守っていれば。生きることはなにも難しいことではないんだ」

プロフィール

長州力

ちょうしゅう・りき|1 9 5 1年、山口県生まれ。学生時代にレスリングでミュンヘンオリンピックに出場。1 9 7 4年、新日本プロレスへ入門。’80 年代の新日ブームにおいて藤波辰爾との抗争劇を繰り広げ、革命戦士のニックネームでブレイク。2 0 1 9年に現役を引退。

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取材メモ

長州さんをよく知る人の話によれば、自分の過去について、とりわけプロレスラー時代の話題になると途端に口数が少なくなってしまうとか。ある質問をぶつけたとき、長州さんがおもむろに立ち上がった。「うわっ、怒られる」。そう思った次の瞬間、水道のホースを手に取って全身に水をかける。YouTubeで見たあの光景が生で、しかも目の前に。ただただ感動!
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