カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/光石研

2021年9月10日

styling: Kentaro Ueno
hair & make: Kumiko Yamada
photo: Takeshi Abe
text: Keisuke Kagiwada
2021年10月 894号初出

仕事よりもシティボーイライフが大事。
そんな光石さんはいかにして、俳優業と向き合うことになったのか?

ニット¥45,100、パンツ¥37,400(ともにティーエスエス/ティーエスエス代官山ストア☎03·5939·8090)

 「ポパイのせい!」で、俳優業そっちのけの日々。

 いきなり個人的な話で大変に恐縮だが、僕は二十歳のとき、とある大学の映画サークルに入っていて、夏になると自主映画を一般公募して映画祭を開催していた。そのときの記憶でとりわけ印象に残っているのが、映画監督や映画研究者に交じって審査員として参加してくださった俳優の光石研さんだ。出品作と真摯に向き合いコメントする姿もさることながら、打ち上げにまで参加し未来の映画人たちと朗らかに語り合う光石さんを見て、「ああ、この方は心の底から映画を愛しているんだなぁ」といたく感激したものだ。では、そんな光石さん自身の二十歳の頃はどうだったのだろうか。

「僕は17歳のときに『博多っ子純情』という映画で俳優デビューしているんですね。そのときのスタッフは撮影が終わってからもとっても丁寧に僕のことをケアしてくれて、東京の事務所を紹介してくれたんです。それで上京したのが19歳のとき。だから、二十歳のときは東京で暮らし始めて2年目の頃ですね」

 晴れて俳優業に邁進するのかと思いきや、どうやら事情は違うらしい。「いやー、なんかウツツをぬかしていました(笑)」と光石さんは苦笑い。

「要するに、俳優業以外のことにばっかり目が向いていました。やっぱり田舎から出てきた少年にとって、東京は刺激が多いわけですよ。だから、レコード屋をめぐったり、ライブハウスに行ったり、あとは草野球チームを作って野球したり。そのときのユニフォームも僕がデザインしたんですが、そういうことが楽しかったんですよね。俳優になれるかどうかもわからないまま、上京していたら違ったかもしれませんが、もうデビューしてましたし、仕事もそれなりにあったものですから、結局苦労してないんですよ」

〝映画を愛する光石さん〟の原型が垣間見えるのかと思いきや、まさかの答え。と、光石さんは声のボリュームを一段階あげてこう笑う。「全部、ポパイのせいですよ!」。ど、どういうこと!?

「ポパイが創刊されたのは中学生の頃だったと思うんですけど、僕らの世代にとっては衝撃だったんですよ。田舎の少年はそこで紹介されているライフスタイルを『そのとおりだよな!』って真に受けてしまって、とにかく『かっこよくいなきゃいけない』ってことを刷り込まれたんです。こんな洋服を着て、こんな部屋に住んで、こんな本を読んで、こんなチャリンコに乗って……みたいな。え、シティボーイだったかって? いやいやただ憧れていただけなんですが(笑)。東京ではそういうライフスタイルを実践できたので、そっちにばかり興味が行ってしまったんです。でも、俳優としっかり向き合ってないことには、不安はなかったですね。なんでだろう……。やっぱり若かったんでしょうね。なんとなくは仕事もありましたし。住んでいたのは、4畳半風呂なしのアパートでしたけど。そこにレコードを並べたり、ポパイっぽくするのが楽しかったんですよね」


AT THE AGE OF 20


写真は20代の頃に光石さんが参加した事務所の食事会での一枚。光石さんの横に座るのは、昭和を代表するハンサム俳優の池部良さんだ。この会には、他にも緒形拳さんや小林稔侍さんもいたそう。めっちゃ豪華! ちなみに、緒形さんと共演したピーター・グリーナウェイ監督作品『ピーター・グリーナウェイの枕草子』も、光石さんが俳優の仕事にしっかりと向き合う上で転機となった作品だそう。本作は光石さんにとって初めての外国作品だった。

 光石さんのライフスタイルが素敵なのは知っていたけど、その源流にポパイがあったのは……なんかすみません。とはいえ、俳優業のほうでも見逃しちゃならない活動はちゃんと残している。なんせ二十歳のとき、日本映画の歴史にその名を刻む傑作『セーラー服と機関銃』に出演しているのだから。

「あー、たしかにあの作品は二十歳の夏に撮影しましたね。僕は主演を務めた薬師丸ひろ子さんの同級生3人組を、柳沢慎吾さん、岡竜也さんと演じたのですが、最初にいただいた脚本では、めちゃくちゃいい役だったんですよ。薬師丸さんのうしろについて、映画の半分以上の時間は出ているような。だけど、出来上がった作品を観たらほとんどカットされていました(笑)。僕らはフェンシング部という設定で、フェンシングのシーンもたくさん撮影したのですが、1ミリも使われてませんでしたから」

 今も記憶に焼き付く、相米監督によるシゴキ。

「だけど、いい思い出ですね」と光石さんは感慨深げに言い添える。相米監督といえば、現場では鬼のように怖い人として知られているが……。

「それはもう、ものすごいしごかれましたよ。例えば、薬師丸さんを追って校庭を走るシーンを撮影したときなんて、朝9時に集合したのに、リハーサルばかりでお昼になってもカメラが回らないんですよ。だけど、『もう1回、もう1回』って言うばかりで、何がいけないかはまったく教えてくれない。結局、夕方くらいになってようやくカメラが回ったと思いきや、そこでもまた『もう1回、もう1回』って、もう何百回やらされたことか。でも、今にして思えば、僕がどこかで目立とうとするのが映画にとっては邪魔で、それを抑えようとしてくれてたんでしょうね。今は映画撮影にそこまで時間をかけられませんから、いい経験をさせてもらったと思います。相米さんはその後も若い俳優を使ってたくさん映画を作られましたが、その隅っこのほうに関われて、今となってはよかったなと思います」

 相米監督でも他の監督でも、20代の頃にかけられた言葉で印象に残っているものはありますか? そう問うと、「20代の頃は、聞いてなかったですね」。

「先輩たちはためになる言葉をかけてくださっていたのかもしれませんが、まったく聞いてませんでした(笑)。せっかく相米監督や五社英雄監督とかと、いい仕事をいっぱいさせてもらったのに、もったいなかったですよね」

 今でこそ物腰が柔らかく紳士的な佇まいの光石さんにも、僕らと同じように大人の言葉に耳を傾けないときがあったのかと思うと、ちょっと安心した。では、いつそんな不良時代を卒業できたのかといえば、30代に入ってからだという。

「これまでみたいに遊んでばかりでは立ち行かなくなってきたんです。実際、仕事も減っていましたから。まぁ、どんな仕事でもそうでしょうけど、10年、15年と同じことをしていると、壁にぶつかることってあると思うんですよね。30代になって僕にもその時期が訪れて、そろそろ俳優業と真面目に向き合わなきゃと思うようになったんです。ちょうどその頃はバブルが崩壊して、僕と同世代の若い監督が作品を作れるようになったんですよね。そんな中、岩井俊二さんや青山真治さんの映画に出させていただいて、リセットできた感じです。それまでは『自分が何かをできる』って自意識が邪魔していたんでしょうね」

 最後に「今もし20代の自分に会えたとしたらなんと言いますか?」と聞いてみた。すると、返ってきた答えは「ビンタですよ!」。

「でも、『光石は音楽が好きだったよな』ってことで、仕事をもらえたりすることも今ではあるんですよ。だから、ちょっと遠回りはしたけど、それはそれで無駄じゃなかったのかなと思いますね」

プロフィール

光石 研

みついし・けん|1961年、福岡県生まれ。’78年に『博多っ子純情』で俳優デビュー。近年の出演作に『バイプレイヤーズ 〜もしも100人の名脇役が映画を作ったら〜』『マイ・ダディ』など。舞台『いのち知らず』が、10月22日から11月14日まで東京・本多劇場で上演。

取材メモ

かつて創刊して間もない頃のポパイを読んでいたときのこと。読者投稿欄に「光石研(福岡県在住)」という人物からのお便りが掲載されていたのを目にしたことがある。珍しい名前だし、もしかして本人? と気になっていたのだが、今回そのことを尋ねてみたら「そんなものがありましたか! はっきりした記憶はありませんが、送ったような気もします」と光石さん。「ポパイのせい!」という本文中の発言はリップ・サービスではなさそうだ。