カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/高田純次

2022年8月13日

夢破れた若き青年が、
“軌道修正”を繰り返しながら
たどり着いた劇団という場所。

高田純次
カーディガン¥11,000(ジャーナルスタンダード/ジャーナルスタンダード表参道☎03·6418·7961) その他は私物

自由劇場に衝撃を受け、
演劇人生の幕が開ける。

「思うに、人はいつもベストの道を選択できているわけではない。だから、心に陰りが生じたり、疑問を持ったりする。そういう時に、自分の納得いく軌道修正がきちんとできるかどうかが肝心なんだと思う」

 自伝の中にそう綴るのは高田純次さんだ。“日本一のテキトー男”の異名を取る高田さんらしくない透徹な人生哲学ではあるが、実際、高田さんの20代は“軌道修正”の連続だったらしい。

「アイビールックを身に纏い、ベルトで十字に結んだ教科書を持って、大学のキャンパスで女の子を口説くっていうのが夢だったんですよ(笑)」

 18歳の頃の夢をそう振り返る高田さん。しかし、それは脆くも崩れ去る。大学受験に失敗したからだ。1浪したもののまたどこにも引っかからず、藁にもすがる思いで入学したのが、御茶ノ水にある東京デザイナー学院のグラフィックデザイン学科。どうしてグラフィックデザイン学科だったのだろう?

「当時は、横尾忠則さんを筆頭に、宇野亜喜良さん、田名網敬一さんらが活躍し始めた時期で、グラフィックデザイナーとかイラストレーターみたいな“横文字産業”に憧れてたんですよ。絵を描くのは昔っから得意だったしね。ただ、あんまり勉強したって記憶はないね(笑)。授業の最初だけ出て出席を確認されたら、学校の近くにあった『コペンハーゲン』っていう領事館を改装した喫茶店とか、銀座のモダンジャズ喫茶『69』とかに行って、同級生と時間を潰す日々でした。まぁ、ちゃんと卒業はしましたけど、専門学校だから2年じゃないですか。あっという間で。本当は4年くらい遊びたかったんですけどね」

 卒業後は、「就職したくはないけどお小遣いはほしい」ということでフリーター生活に突入。自動車教習所に来た人の写真を撮るバイトで糊口をしのいだ。そんな気楽な暮らしを謳歌する高田さんが、第一の“軌道修正”を迫られる出来事が勃発したのは、25歳のときだ。

「先輩に頼まれてある劇団のポスターを描くことになったんですよ。そしたら、『暇なら舞台にも出て』って誘われて、通行人の役をやることになったんです。もちろん、人手が足りないからってだけだったんだけど、考えてみれば、あれが俺の初舞台だな。それが終わった後、同じ先輩に『面白い舞台があるから』って見に行ったのが、自由劇場の『マクベス』。これは面白かったんですよね。小さいところで跳んだりはねたりして、もう圧倒されちゃって」

 自由劇場とは、1966年に演出家の串田和美さんと俳優の吉田日出子さんによって結成されたアングラ劇団の先駆的存在だ。当時、拠点である六本木のアンダーグラウンド自由劇場には、公演のたびに黒山の人だかりができたという。「あれを見ちゃったのが運の尽きだね(笑)」と本人は語るが、この出合いがあったからこそ今の高田さんがあるのは、その後の展開からも明らかだ。

「『マクベス』の1年後、自由劇場が研究生を募集しているのを知ったんですよ。稽古は夜6時から3時間だっていうんで、これならバイト終わりに行けるなと思って、応募してみたんです」


AT THE AGE OF 20


高田純次 二十歳のとき
写真は、東京デザイナー学院2年生の夏、中古のバイクで日本縦断の旅に出たときの一枚。東京を出発してまず向かったのは北海道。「最初は順調だったんですよ。知り合いもできたりして。ただ、屈斜路湖の近くでバイクが故障してしまって、アイヌに助けてもらうことになりまして。そこからずっとバイクの調子が悪くて、大阪の枚方の友達に会った後、東京に引き返しました。今となっては、なんでこんな旅に出たのかわからないんだけど。たぶん病んでたんでしょうね(笑)」

宝石鑑定士の資格を取り、
ジュエリーデザイナーに。

 結果は見事に合格。そこで高田さんは、後に東京乾電池で合流することになる、柄本明さん、ベンガルさん、綾田俊樹さん、岩松了さんと出会い、研究生として切磋琢磨の日々を送る。

「ただ、研究生は1年するとほっぽりだされちゃうんですよ。その後は残って自由劇場の芝居に出るもよし、外へ出て自分で好きな芝居をするもよしって感じで。僕は演出家の森田雄三さんやイッセー尾形くんと『うでくらべ』という劇団をやることになったので残りませんでした。それでベケットの戯曲をやったんですけど、全然客が入らなくて。その頃には今の女房と籍も入れていたし、このままやっていても役者で食っていける気はしなかった。それでやっぱり稼がなきゃいけないなってことで、芝居から足を洗うことにしたんです」

これが高田さんにとっての第二の人生の“軌道修正”だ。まずは資格を取ろうとガイドブックを繰っていると、ある資格に高田さんのセンサーが反応した。

「宝石鑑定士というのを見つけたんですよ。何か面白そうだから取ってみようと学校に通い始めたんです。だけど、入って気づいたのは、宝石鑑定士って国家資格じゃないんですよ! 今で言えば、野菜ソムリエみたいなもの(笑)。もうがっかりしちゃって」

 しかし、捨てる神あれば拾う神ありというべきか、あるとき学校に、ジュエリーデザイナーを探している宝石の卸会社が現れる。学校サイドはデザイナー学院を出ている高田さんを推薦し、高田さんは晴れてサラリーマン稼業に。

「結構な高待遇でね。仕事も楽しかったんですよ。俺のデザインしたジュエリーも概ね好評でしたから」

「ただ……」と高田さんは言葉を継ぐ。「受付のオネエチャンを口説こうと、新宿の『ぼるが』って居酒屋で飲んでいたら、たまたま会っちゃったんですよ。東京乾電池を組んだばかりの柄本やベンガルくんに。実は俺、乾電池の旗揚げ公演を見ているんだけど、それが大ゴケしてね。『サラリーマンになって正解だったな。よかったよかった』って大笑いしながら帰ってきたんですよ(笑)。でも、2回目の公演は大成功したらしいって聞いていて。そんなタイミングで会ったから、『俺、このままでいいのかな』って思っちゃったんだろうね。それで女房どころか1歳の子供もいたんだけど、会社を辞めることにしたんです。まぁ、貯金が200万くらいあったから当分はそれで暮らせばいいかなって。本当はそれでマンションでも買おうかって女房と話していたんですけど」

高田純次

 かくして、高田さんが第三の“軌道修正”により東京乾電池に入ったのは、30歳のとき。初参加した公演は、雑誌やテレビで取り上げられ大盛況を博す。

「貯金はすぐに底を尽きちゃったので、肉体労働のアルバイトをやりつつ、稽古をする日々でしたね。そうするうちにドラマの端役とかバラエティ番組に出られるようになり、何とか食っていけるようになった感じです。宝石屋をやっていたら、もっと稼げていたかもしれないけど(笑)。え、若い人にメッセージ? こんな俺が言うのも何だけど、若いうちからやりたいことを見つけるっていうのは重要。やっぱり早くからやっている奴には敵わないから。俺だって3歳からピアノやってたら、今頃ピアニストですよ(笑)。あと大事なのは、国家資格を持っておくことかな(笑)」

プロフィール

高田純次

たかだ・じゅんじ|1947年、東京都生まれ。1971年に自由劇場の研究生となるが、1年後イッセー尾形らと劇団「うでくらべ」を結成。その後、4年間サラリーマン生活をし、1977年に劇団「東京乾電池」に参加。2011年に映画『ホームカミング』で初主演を飾った。

取材メモ

20代の頃から横尾忠則さんに憧れていたという高田さんは、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の取材で初対面を果たす。「成城のアトリエにお邪魔したんですけど、第一印象は、すっごい指のきれいな人。白くて、長くて、しなやかで。さすがに世界的な芸術家は違うなぁと思いましたよね。人さし指なんか30㎝くらいあるように見えましたから(笑)。いや、もしかしたら実際にそのくらいあるのかもしれないけど(笑)」と高田さん。