カルチャー
二十歳のとき、何をしていたか?/関根勤
2022年6月13日
photo: Takeshi Abe
styling: Iseko Takano
grooming: Megumo Furukawa
text: Keisuke Kagiwada
2022年7月 903号初出
師匠を持たない素人芸人が、
プロになった20代で経験したのは、
テレビという大舞台での〝公開修業〟。
![関根勤さん](https://popeyemagazine.jp/wp-content/uploads/2022/06/ea3b2a8eb81f73fb68a94a8a01e75b9c.jpeg)
大学最後の1年限定で、
プロの芸人デビュー。
1972年、当時の若者から絶大な支持を集めた伝説的なバラエティ番組がTBSで放送開始した。その名は『ぎんざNOW!』。特に人気の高かった企画が、素人芸人がネタを競い合う「しろうとコメディアン道場」だ。1974年10月、この企画に彗星のごとく現れた一人の青年が、大爆笑をかっさらうという事件が勃発した。大学3年生の関根勤さんだ。
「僕は高校の頃から友達と一緒に目黒五人衆というグループを組んでお笑い活動をやっていたんですよ。目黒区勤労福祉会館なんかを貸し切りにして400人くらいの観客を呼んでネタを発表したこともありました。だけど、他のメンバーが就職活動をするということで解散になってしまって。そんなときに知ったのが、この企画でした。自分のやってきたことがどのくらい通用するのか、腕試しのつもりでオーディションを受けてみたんです」
オーディションでは自身が中2から磨き上げてきたあらゆるネタをなんと45分にわたって披露しまくったというから、かけた意気込みは推して知るべし。結果、プロデューサーに気に入られたばかりか、「しろうとコメディアン道場」の構造まで変えさせてしまったという。もともと週ごとの勝者を決めるだけだったのだが、大量のネタを持っていた関根さんを見込み、5週勝ち抜き制にしてチャンピオンを決めるという形式に変わったのだ。もちろん、関根さんが初代チャンピオンだったことは言うまでもない。
「その審査委員席に座っていたのが、僕が所属している浅井企画の社長だったのですが、チャンピオンになった収録終わりに喫茶店に呼ばれて、こう言われたんです。『どうだ、プロになってみないか?』って。僕はお笑いが好きで、俯瞰でものごとを見ていたので、『いや社長、僕みたいな所詮はクラスの人気者でしかないアマチュアが通用するとは思えません』と一度はお断りしたんですが、『いや、コント55号を育て上げた私が保証する』って食い下がるんですよ。当時、コント55号っていったら、もう例えようがないくらいのスター。それを育てた人に才能を認められたから舞い上がっちゃいましてね(笑)。大学卒業するまでの1年だけ、浅井企画に預かってもらうことになったんです」
当時のお笑い業界は、まだ師匠の下で修業を積んでからデビューするのが当たり前の時代。一足飛びに第一線に放り込まれるなんていうのは前代未聞と言っていい。そんな異例の処遇を受けた関根さんだったが、いざ飛び込んでみると緊張で実力を発揮できない日々が続いたという。そうこうするうちに、目と鼻の先まで迫ってきたのは、大学卒業というタイムリミットだ。
「僕は高校の頃から、将来は尊敬する親父の後を継いで消防署員になるつもりだったんです。だけど、ここで芸人を辞めて消防署員になったら、20代後半で同世代の芸人が脚光を浴びるようになったとき絶対に後悔するし、そう思いながら消防活動をするのは失礼だなと。だから、30歳までは続けて、それでも芽が出なければ辞めようと考えを改めたんです。親父はがっかりしていましたけどね」
![関根勤さん](https://popeyemagazine.jp/wp-content/uploads/2022/06/dcdd628b855b4e071d56130870d0473e.jpeg)
ところで、関根さんはデビュー当時、ラビット関根という芸名で活動していたそうだ。どんな経緯だったのだろうか。
「デビュー直後、TBSが修業させようってことで、桂三枝(現・文枝)さんのラジオ番組『ヤングタウンTOKYO桂三枝の大放送』の前説をやることになったんですね。同時期に、他の番組で僕の芸名を募集していたのですが、いいのが集まらなかったんで三枝さんに相談したら、『じゃあ、僕がつけてあげよう。今年はうさぎ年だし、君の顔はうさぎに似ているからラビット関根はどうや?』って言ってくださって。一般の中学生に言われたら首を傾げたかもしれないけど、やっぱりね、絶好調の人に言われるといい名前に聞こえるもんなんですよ(笑)。三枝さんは、こうも言っていました。『もしラビットが世間に浸透しなかったら、次の年は辰年だからドラゴン関根で、それがダメならスネーク関根。12年かけて十二支やって芽が出なかったら、諦めて他の職業に行きなさい』って(笑)」
AT THE AGE OF 20
![関根勤20才のとき](https://popeyemagazine.jp/wp-content/uploads/2022/06/01562cc269b10096c14e9b2a07063119.jpg)
「この写真は今では財産になっています。1歳から並べてみるとめちゃくちゃ笑えるので(笑)」と関根さん。
![関根勤さん21才のとき](https://popeyemagazine.jp/wp-content/uploads/2022/06/8d1ea98b300d10685e54450c1ff9e15b.jpg)
20代後半でようやく得た
仕事での手応え。
幸いなことに仕事は絶えず、ラビット関根という名はたちまち世間に浸透した。しかし、関根さん個人としては、まだ仕事で手応えを得られることは少なかったという。悶々とした日々が続く中、転機が訪れたのは27歳のとき。関根さんと同じく「しろうとコメディアン道場」のチャンピオンだった小堺一機さんが、浅井企画に所属することになったのだ。
「小堺くんは2歳下なんですが、話が合ったので、よく遊んでいたんですよ。そしたら、それを見たある作家さんが『若い芸人が仲良くしているだけじゃダメだよ。せっかくだからコンビでも組みなよ』って言ってくれて。それならと、下北沢の小屋を借りて、2人でコントを始めることにしたんです。始める前、初めて萩本欽一さんとちゃんとお話をしたんですが、『僕の場合、お客さんが100人の小屋で修業を積んだ時代がある。当時は面白くないこともあったかもしれないけど、そのおかげで今はつまらないことをやらないで済んでいる。ところがお前たちは、テレビという何十万人もが見ている場所でつまんないことをやる。しっかり小屋で勉強してきなさい』って言われたのを覚えています」
1年後、2人の頑張りを見た萩本さんは、自身の公開収録コント番組『欽ちゃんのどこまでやるの!』にまずは小堺さんを、さらに1年後には関根さんを呼ぶ。関根さんは既に29歳になっていた。
「最初に与えられた役は、番組から誕生したアイドルグループ『わらべ』のメンバー、倉沢淳美さんの恋人でした。倉沢さんはまだ中学生だったのですが、僕は童顔だったので、萩本さんは若いと勘違いしたんでしょうね。だけど当時、僕は『カックラキン大放送!!』というバラエティ番組のコントで、殺人者カマキリ男っていう今で言えば江頭2:50みたいなピーキーなキャラを演じていたんですよ。なので、収録に来ていたお客さんは相当に気持ち悪がっていたみたいで(笑)。その空気を察した萩本さんが僕の本当の年齢を知って驚いて、恋人役は3週目で降ろされました(笑)。その代わりに与えられたのが、黒子をやっていた小堺くんの相方、グレーの黒子=グレコ。と同時に、萩本さんには『ラビット関根を辞めてくれ』と言われて、本名に戻すことにもなりました。そうやって萩本さんが僕のピーキーなイメージを変えてくれたことで、個人的にもようやく仕事に手応えを感じられるようになっていった気がします。だから、僕は確かに師匠について修業はしませんでしたけど、20代を通して、テレビという大舞台でひたすら公開修業をさせられていたって感じでしたね(笑)」
プロフィール
関根勤
せきね・つとむ|1953年、東京都生まれ。バラエティ番組を中心に、テレビ、ラジオ、CM、舞台からYouTube「関根勤チャンネル」まで幅広く活動。2022年4月からbayfmのラジオ番組『シン・ラジオ-ヒューマニスタは、かく語りき-』の水曜パーソナリティを担当。
取材メモ
本文中に登場する、殺人者カマキリ男とは関根さんがなんとか番組で爪痕を残そうと独自に生み出したキャラ。映画『県警対組織暴力』で川谷拓三さんが演じた男と、アニメ『空手バカ一代』に登場するカマキリ拳法にインスパイアされたそう。「当時はSNSなんてないから評判がいいと思っていたんですが、あとで聞くと本気で気持ち悪がっていた人が多かったみたいで(笑)。あのときSNSがあったら僕は消えていましたね」と関根さん。
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