カルチャー

映画の”革命”について考える。Vol.4/富永京子

『ふつうの子ども』(呉美保監督)

2026年6月1日

illustration: Shigokun
text: Kyoko Tominaga
edit: Keisuke Kagiwada

 毎月ひとつのテーマを掲げ、4人の執筆者にそれにまつわる映画エッセイを寄稿してもらう「映画の〇〇について考える。」。今月のテーマは、1968年にパリで巻き起こった五月革命にちなんで”革命”。4週目は社会運動論を研究する社会学者の富永京子さんが、呉美保監督による『ふつうの子ども』を取り上げてくれた。

『ふつうの子ども』/富永京子

 アラブの春や雨傘運動と呼ばれる近年の革命の関連記事を読んでいると、「若者」の参加を強調したものが多いことに気づく。もっとも、こうした報道は最近の日本の反戦平和デモにも多いから、ある種革命や社会運動に共通の傾向なのかもしれない。年長者も若者も革命や社会運動には参加しているはずだが、その「若さ」になぜ私たちは注目してしまうのか、それによって何を失っているのかがずっと気になっていた。

 映画『ふつうの子ども』(2025年)は、同じクラスの女の子・心愛に惹かれる小学四年生の男子・唯士が主人公。放課後は虫捕りや駄菓子屋に行くふつうの児童だが、環境問題に関心を持つ心愛に惹かれ、彼女と同級生の陽斗と環境活動をともにするうちに、とんでもないことをしでかしてしまうという物語だ。

 ストローや食品容器の分別に関して突然口やかましく母親に警告し、過激化した活動が教員に露見しかけて焦る唯士のすがたは子どもらしい微笑ましさにあふれているが、一方で、「子どもらし」くて「微笑ましい」という見方をすることによって、彼らを私たちの社会から切り離してしまっていないか、とも考えさせられる。

 彼らの両親や教員といった大人たちは、心愛の主張や三人の行動を見て当惑し、時に叱責する。あるいは「そんなの誰でも知っている」「子どものやること」とクールに振る舞うことで、彼らのアクションを無効化してしまう。むしろ社会を変えない方向に動いているのは、若い人が一時的に盛り上がっているだけ、と大人とは別の世界の出来事として処理してしまう、こちらの側の無邪気さでもあるのだろうと感じさせられる。

 社会運動が達成感や連帯感、時には人に言えないスリルにより楽しくなっていく過程、その一方で、エスカレートする活動やガチな仲間についていけなくなる心境が活き活きと描かれる。社会運動はよく「過激だ」と見られ、実際に唯士たちの活動はだんだん過激化するわけだが、そこに向かうメカニズムが三人のやりとりを通じて丁寧に綴られている点において、社会運動の特別でなさ、「ふつう」さを描いた点でも名作であると思う。

プロフィール

富永京子

とみなが・きょうこ|立命館大学産業社会学部准教授。著書に『なぜ社会は変わるのか はじめての社会運動論』『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』など。最近面白かった本やマンガ、論文にはならないけど興味深いデータ、展覧会や洋服の話をするポッドキャスト「仕事の合間」も運営中。

作品のあらすじ

『ふつうの子ども』

呉美保監督

ごく普通の小学4年生として暮らしてきた唯士が、環境問題に高い意識を持つクラスメイトの心愛に惹かれ、同じくクラスメイトの陽斗と3人で環境活動を始める。『そこのみにて光輝く』『きみはいい子』の呉美保監督と脚本家・高田亮による三度目のタッグ作。