カルチャー

映画の“嘘”について考える。Vol.3/早川由真

『旅立ちの時』(シドニー・ルメット)

2026年4月17日

illustration: Shigokun
text: Yuma Hayakawa
edit: Keisuke Kagiwada

 毎月ひとつのテーマを掲げ、4人の執筆者にそれにまつわる映画エッセイを寄稿してもらう「映画の〇〇について考える。」。4月のテーマはエイプリル・フールにちなんで”嘘”。3週目は映画研究者の早川由真さんが、シドニー・ルメット監督の『旅立ちの時』を取り上げてくれた。

『旅立ちの時』/早川由真

 僕は嘘つきだ、と森のなかで少年は、傍らで座っている少女に呟く。僕の名前はマイケルじゃなくて、本当はダニーだ。父さんと母さんも偽名なんだ。両親は爆弾工場を破壊した政治犯で、僕たちは逃亡生活を送ってる。君を抱けなかったのはそのせいなんだ。でも君を愛してる。立ったり屈んだりしながら真実を打ち明ける少年と座ったまま聴いている少女の表情は、徐々に接近してゆく移動撮影の切り返しで捉えられる。ときに指先で雑草を弄びつつ少年は、相手を真っ直ぐに見つめながらもどこか翳りを帯びている瞳で、ただひとつ信じられるものとしての愛を差し出す。やがてふたりは接吻し、倒れるようにして画面の外に消えてゆく。 

 ダニーの人生は嘘だらけだ。半年ごとに変わる髪と瞳の色。音の鳴らない鍵盤。次々に移ろう住処には家族写真すらない(新聞で見つけた祖父母の写真を、彼は親に隠れて切り抜く)。80年代レーガン政権下で一家はFBIに追われ、地下組織に助けられながら各地を転々としている(注1)。そんな両親の政治的な直接行動を、彼は尊重しているようだ。ベトナム戦争で使われるナパーム弾製造工場の爆破には大義と誇りがあり、そこに嘘はなかった。だがその結果、嘘にまみれた人生を送っている。偽名で高校に通っていたから、ジュリアード音楽院に合格しても書類を揃えられない。そして人を愛することすらままならない。『旅立ちの時』(1988年)の原題は Running on Empty という。燃料切れになっても走り続けること。地に足のつかない滑走。世界から痕跡を抹消しながら、上滑りしていく人生。疲弊が一家を蝕み始める。

 あらゆる映画は、嘘を宿命的に抱え込んでいる。人は、映っているものを簡単には信じない。だから映画は本当らしさを取り繕う。ときに人は「もっともらしくない」と言って嗤う。だが、そもそも映画は嘘から出た真である。嘘としか思えないものが炸裂してある種の真実性を帯びるとき、「おいおい嘘だろう」と半ば呆れながらも感動してしまうとき、映画の魔法は生じている。詐欺、陰謀、策略を扱う作品が多いのは、あらゆる映画が嘘に根ざしているからかもしれない。たとえば画面に映る人々は本物の人間ではなく、身分を同定できない影にすぎない。私はジーン・ハリントンだと名乗るその影が、数日後にはレディ・イヴだと名乗るかもしれない。観る者は知らずして、信じがたいものをひとまず信じるという賭けに興じている(注2)

 本作は、嘘を炸裂させるほど派手な映画ではない。ただ静かに、信じることに賭け金を置く映画だ。たとえば俳優を信じること。ダニーを演じるのはリヴァー・フェニックス。ピアノを弾くシーンでは本人の手元が映る。実は聴こえているのはガー・バークというピアニストによる演奏なのだが(注3)、半年間練習したというリヴァー・フェニックスの指づかいは、押せば間違いなく音の鳴る楽器の演奏を通じてダニーが世界の感触を確かめているのだと信じさせてくれる。繊細で知的でどこか不器用でもあるリヴァー・フェニックスの魅力については、ここではその一端に触れることしかできない。たとえばマーサ・プリンプトン演じる少女ローナに別れを告げる終盤で、頬にくちづけするとき彼は目を開けたままどこかを見つめ、わずかに身を顫わせる。瞑られることのないリヴァー・フェニックスの瞳が、感傷に陥る手前で映画を救っている。あるいは活動家の旧友との口論を終えた母親を、ダニーが優しく抱きしめる瞬間はどうか。嘘くささのないやり取りが瑞々しく、抱擁のとき彼はやはり目を開けてどこかを見つめている。

 ダニーの母親を演じたクリスティーン・ラーティも素晴らしい。彼女は視線ですべてを語ってしまう。肉親の死を報告する夫に寄り添う優しい瞳。誘惑してくる旧友に対する、初めは微かな疼きを滲ませるが、しかし決然と距離をとるときの眼差し。レストランで14年ぶりに再会した父親に向ける眼も鮮烈だ。ショットサイズを変化させながらの切り返しで構成されたこのシーンは忘れ難い。シドニー・ルメットは決定的な「ショット」で勝負する監督ではない。単純化した言い方が許されるなら、説明的な編集に依拠しがちな監督だとも言えるだろう。だが、知ったことではない。ここでのシンプルな切り返しには俳優への信頼がある。とつぜん現れた娘を前にして、スティーヴン・ヒル演じる父親はしばらく呆然として無言のままである。彼の無言ぶりや、席についた時点ですでに潤み始めているラーティの瞳が、14年という時間の経過を信じさせてくれる(注4)

 カットを割らずに勝負している瞬間もある。ジャド・ハーシュ演じるダニーの父親が玄関先や居間で後ろ向きに転倒する瞬間はカットを割っていない。さりげないが、なかなか危険な転倒を細工せずに見せている(注5)。あるいは母親の誕生会で、ローナを交えて一家がジェームズ・テイラーの《ファイア・アンド・レイン》を歌いながら踊るショットは、長回しの移動撮影だ(記憶に残る移動撮影は随所にある。撮影はジェリー・フィッシャー)。引きで捉えられた一家は、それぞれが生き生きした動きを見せる。人々を地に足のついた存在として示すこうしたロングショットも、映画を信じられるものにしている(ロングショットに何気なく映り込む端役の顔も印象的だ。たとえば食堂でダニーにピアノを探してやろうと告げる音楽教師に振り向く同僚の女性の笑顔や、父親に反論するダニーをキッチンから見守る弟のワクワクした表情)。母親の誕生会の時点では、ローナは一家の正体を知らない。嘘を抱えたまま、一家は彼女と楽しく踊っていた。嘘だと知れたら、すべては消えてなくなるのだろうか。いや、たとえ嘘だとしても、一緒に踊ったあの夜は消失しない。それは間違いなく映っていたからだ。あの歌は確かに鳴り響いていた。そして実はいまも鳴り響いている。『旅立ちの時』はただひとつ信じられるものを信じることに賭ける。


(注1)シドニー・ルメットのフィルモグラフィにおいて『旅立ちの時』(1988)は、左翼活動家の子供を描いた『ダニエル』(1983)からテーマを引き継いでいる。また、近年ではポール・トーマス・アンダーソンが『ワン・バトル・アフター・アナザー』(2025)の着想源のひとつとして本作を挙げている。 Susan King, “Guest Programmer: Paul Thomas Anderson.”(https://www.tcm.com/articles/022042/guest-programmer-paul-thomas-anderson)また、桐島聡の軌跡を描いた高橋伴明監督『「桐島です」』(2025)で脚本を担当した梶原阿貴による自伝『爆弾犯の娘』(ブックマン社、2025)に本作が登場していたことも記憶に新しい。

(注2)ここでは詳述しないが、映し出された対象の真正性、撮影・編集技法によって構築される「自然さ」、美術や俳優の演技といった演出の巧拙、展開する物語のもっともらしさ、登場人物の虚言、語り手による叙述トリックなど、厳密に言えば映画における嘘はさまざまな要素が多層的に折り重なったものとして捉える必要がある。

(注3)Barry C Lawrence, In Search of River Phoenix: The Truth Behind the Myth (Santa Rosa: Wordsworth Publishing, 2004), p.127.

(注4)『スイング・シフト』(1984)や『フォーエバー・ロード』(1992)など、この時期のラーティの出演作には良作が多い。こうした「普通のアメリカ映画」こそいまや稀少である。これらの映画を日本語字幕つきで観たければ、いま最もクールで愉しいフィジカル・メディア、VHSをレンタルすればよい。ネット経由でVHSをレンタルできるKプラス(https://k-plus.biz/)や、京都のふや町映画タウン(http://dejan.dyndns.tv/f_eigatown/)のサイトで在庫検索すれば、おそらく見つかるはずだ。海外版のBlu-rayやDVDなら、新宿のビデオマーケット(http://www.video-market.net/vm/)に行けば見つかるかもしれない。

(注5)カットを割らないことの意義については、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)を論じた黒沢清の講義がわかりやすい。黒沢清『黒沢清、21世紀の映画を語る』(boid、2010)248頁。

プロフィール

早川由真

はやかわ・ゆうま|映画研究者。主な論文に「顔のない殺人者──リチャード・フライシャー『見えない恐怖』における〈盲者の視点ショット〉とキャラクターの生成」(『映像学』第102号)、批評に「侵入と接地 (ケリー・ライカート『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』論) 」(「ケリー・ライカート Blu-ray Collection」ブックレット)など。

作品のあらすじ

『旅立ちの時』

シドニー・ルメット監督

指名手配中の両親と逃亡生活を送る17歳のダニーは、新たな潜伏先で音楽教師フィリップスに才能を見出され、ジュリアード音楽院の受験を勧められる。さらに彼の娘ローナと恋に落ちるが、再び別の街へ移ることに。かくしてダニーは究極の選択を迫られるのだった。ダニーを演じたリヴァー・フェニックスは、アカデミー助演男優賞にノミネートされた。