TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#4】愛する町、鎌倉④ 箱庭の余剰
執筆:村岡俊也
2026年6月3日
養老先生を後部座席に乗せて海沿いの134号線を走りながら、この国道の始まりは戦後、米軍の意志によって通されたものだという話を聞く。それまで海沿いは松林が広がっていて、養老先生は夏になると木漏れ日の下で本を読んでいたという。松林には、鎌倉の山側とはまた違う種類の昆虫がいて、虫をとりつつ、木漏れ日で読書をする。なんて羨ましい風景だろう。便利が削るのは余剰だと、つくづく思う。
その話を聞いて以来、屋外での読書スポットを探すようになった。体の感覚を解放しながら本を読んだ方が、没頭できる。そして鳥の声や風によって現実に引き戻される。その往還が、体の芯に残っていく。久しぶりに行った小動神社の奥にある見晴らし台は、陽を遮るものがないために暑いけれど、春に30分本を読むには最適の場所だった。およそ30年前に鎌倉高校に通っていた女の子とデートで行った以来かもしれない。インバウンドで混雑する鎌倉高校駅前から歩いて10分ほどの場所にもかかわらず、ほとんど人が訪れることもなく、江ノ島を眼下に眺めて水平線を見晴らし、時折、海風が吹く。
あるいは山沿いの自宅から、隣家の市有地である山の稜線トレイルを歩いて15分ほど、急にぽっかりと開いた広場へと向かう。春にはふきのとうを採るその広場には、丸太がベンチのように置かれ、その脇にシートを広げて寝転がる。広げた本の向こうで、杉が揺れる。
鎌倉に住んでいると、誰も来ない隙間を探すのが上手くなる。利益からも便利からも遠い場所。松林の木漏れ日のような余剰が、生活のすぐ隣りにあることが、鎌倉らしさだと思うようになった。何せコンパクトな町なのだ。海も山もあるが、スケールは小さい。だからこそ、箱庭のような町の中にある気持ちの良い場所は、どうにか残しておきたい。養老先生にお聞きするまでもなく、その余剰が少しずつ削られていることに、長く暮らしていると否応なく気づく。
鎌倉駅からすぐの場所にある「鎌倉市農業連即売所」は、私が子どもの頃にはただ「市場」と呼ばれていたが、いつからか略して「レンバイ」になった。農家さんたちは昔からそう呼んでいたのだろうか。だとしたら、寿司屋の符牒のようなもので、なおさらそうは呼びたくない。「市場」で買っていた「トマト」が、「レンバイ」の「鎌倉野菜」になった。呼び名が変わっただけだろうか? 私には何かが削られているように思えてしまう。トマトの美味しさは変わらないにしても、暮らす人たちのための場所が、都内のレストランの仕入れ先になり、観光名所になった。隣町である逗子の友人にそう話したら「出たよ、鎌倉」と言われた。そう、面倒くさいのよ、鎌倉って。でも、仕方がない。誰かが書いておかなければ、「市場」だった頃の空気は忘れられてしまうから。
養老先生が子どもの頃に捕まえていた海岸の虫は、圧倒的に数を減らしているだろう。鎌倉らしさも、虫と同じようなものかもしれない。失われてもほとんど誰も気づかない。でも果たして、それは同じ町なんだろうか? きっと虫は、一緒にしてくれるなと思うだろうな。
インフォメーション
村岡俊也
むらおか・としや|1978年生まれ。鎌倉市出身、在住。ノンフィクション・ライター。著書に『増補 新橋パラダイス 駅前名物ビル残日録』(ちくま文庫)、25歳で高松の海で亡くなった画家の評伝『穏やかなゴースト 画家・中園孔二を追って』(新潮社)。アイヌの木彫り熊職人、藤戸竹喜を取材した『熊を彫る人』のほか、『酵母パン宗像堂』(ともに写真家と共著、小学館)がある。
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