TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#2】愛する町、鎌倉② おい、小林。
執筆:村岡俊也
2026年5月20日
観光客で混雑する小町通りに入って最初の角を左へ曲がり、パチンコ店を過ぎた左手にあった井口生花店は、花屋の傍に学習塾を開いていた。当時は学習塾がまだ珍しく、近所の子どもたちが大勢来ていたと言うが、その中に小林秀雄の孫がいた。幼なじみの父も国語の授業をする時にはきっと気が引けただろう。
私がまだ大学生だった頃、友人の編集者に誘われて川端康成の孫が開いたバーベキューに参加したことがある。川端邸は実家から歩いて10分ほどの山際にあったが、芝生の庭に長い縁側が美しい日本家屋だった。裏手には、幼い頃から通っていた甘縄神社があり、小説『山の音』の「山」とは、その甘縄神社のある小さな丘のような山であると後年知った。なんとなくバーベキューに背徳感を覚えたのは、川端の邸宅は美しく管理され、生活感がほとんどなかったせいかもしれない。川端が自ら命を絶ったのはその古民家ではなく、仕事場としていた逗子マリーナの一室だったが、ピンとした空気とバーベキューのミスマッチに、ずっと緊張していた気がする。
小林秀雄も川端康成も、鎌倉に暮らしていた。二人を含めた文士たちが、戦時中に鶴岡八幡宮の鳥居近くで貸本屋「鎌倉文庫」を開いていた話が好きだ。川端や小林が、貸し本屋に集って、交代で店番をしていたと思うとおかしい。シフト調整と言ったって、戦時下の文士は暇だったと思う。
大岡昇平『中原中也』には、こんな記述がある。
「扇ヶ谷に小林秀雄が住み、少し離れた温泉旅館に私が下宿していた。私は当時鎌倉で一番ひまな人間といってもよかった。中原の日記に、大岡訪問、大岡来訪の記事が多いのを見て、私の気持ちは少し休まる。」
「鎌倉で一番ひまな人間」というセンテンスに憧れる。「ひま」がなければ何も考えられず、物事が起こる様子を客観的に記録することもできない。今も鎌倉にはひま人が多く、一番になるのはとても難しい。渦中にいながらも半歩外にいるような気質は、思考を深めつつ記録をする役割を担う上ではもっとも重要なものかもしれない。
大岡が19歳の時、フランス語の家庭教師をしていたのが、小林秀雄だった。小林を通じて出会った中原中也が若くして亡くなったために、大岡にとっては失われた友が研究対象となった。中也を訪ねた日々が日記に残されているのを読み「私の気持ちは少し休まる」と書いた。大岡が書いた評伝『中原中也』の中に、中也が尋常小学生の頃から始めた短歌が掲載されている。
怒りたるあとの怒よ仁丹の二三十個をカリカリと噛む
この素朴かつ才気を感じる短歌を、海辺に住むイラストレーターの横山寛多に送った。寛多は仁丹が好きで食後によく齧っていて、懐かしい匂いがするのだが、いつもどうすれば心やすく暮らせるかを話し合う友でもある。戦時下の「鎌倉文庫」のポスターは、寛多の大叔父である横山隆一が描いた。返信には、この短歌への驚きと共に、大岡が小林秀雄のことを「おい、小林」と呼び捨てにしていたというエピソードが記されていた。
それから、寛多が好きな坂口安吾が書いた小林についての文章が添付されていた。
「彼は見えすぎる目で見て、鑑定したままを書くだけだ。私は然し小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や実朝の歌や徒然草が何者なのか。三流品だ。私はちっとも面白くない」(『教祖の文学――小林秀雄論』)
その後に安吾は、好きな見本として宮沢賢治の遺稿「眼にて云ふ」を引用する。そして文章は「思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目。そんな目は節穴みたいなもので物の死相しか見ていやしない」と続く。
何という痛烈さ。安吾でさえ反発し、たじろいで抗弁しているようにも読めてしまう。が、賢治の遺稿は今際の際で血が噴き出る様を描写した生に溢れた詩だ。見えすぎる目で見渡せば、世の中すべてが止まっているように見えるのだろうか。小林の冷静さは、人を追い詰める。
「おい、小林」
大岡にそう呼びつけられて、案外、嬉しかったかもしれない。安吾も大岡も、その冷静さをむしろ小林の弱点として見ていた。
私の家から鎌倉駅へと向かう途中、かつて小林秀雄が暮らしていた雪の下の土地を通る。そこに往時の面影はなく、分割されていくつかの家が建っている。ぶらぶらと歩きながら思い浮かべるのは、小林でも中也でもなく、やはり師を呼びつけにする大岡の姿だ。
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村岡俊也
むらおか・としや|1978年生まれ。鎌倉市出身、在住。ノンフィクション・ライター。著書に『増補 新橋パラダイス 駅前名物ビル残日録』(ちくま文庫)、25歳で高松の海で亡くなった画家の評伝『穏やかなゴースト 画家・中園孔二を追って』(新潮社)。アイヌの木彫り熊職人、藤戸竹喜を取材した『熊を彫る人』のほか、『酵母パン宗像堂』(ともに写真家と共著、小学館)がある。
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