カルチャー

「アート」と「生活」のボーダーを揺らがせるもの

Catching Art: 身体でアートを感じるために #11

2026年6月12日

Catching Art


text & photo: Daniel Abbe
edit: Masaru Tatsuki

「いいちこ」の広告写真、見たことありますか? それはアートだと思いますか?

私が日本に住み始めたのが2009年の1月。それから5年間、杉並区と中野区に住んでいました。日本の写真に憧れがあり、どうしても一度は住んでみたいと思ったわけです。住み始めて地下鉄で通勤をして、電車の中の広告に目が行きました。あの頃、特に目に留まったのが、いつも絶景の中に置かれているクリアな瓶。この広告は珍しいことにコピーがない。アメリカの広告だと必ず大きな文字で「何々ビール」や「保険なら株式会社Aだ!」と書く。それに比べると、いいちこは違う。杉並区から葛飾区までという日々の移動に疲れながら目を上げると気持ち良さそうな草原が見られるのが新鮮でした。「なんていい香水だろう」という印象を受けていました。

「いいちこ」は香水ではなく焼酎だということをいつ知ったかは忘れてしまいましたが、すぐに分かったわけではありません。少し面白くないですか? 私の味覚ではなく嗅覚に来たんですね。

この話は単なる思い出話ではありません。広告を見て感じた経験と「アート」はどうやって繋がるのか?

だって、地下鉄の広告は「アート」のはずがない、ですよね?

日向あき子『原始の心:共有とBe感覚』社会思想社、1972年

この話を深めるために、日向あき子(1930年 – 2002年)という評論家の文章を紹介したいです。彼女の文章は本当に画期的だと思うのでまたゆっくり紹介するかもしれません。日向は美術評論家ですが硬い文章を書いていた方ではありません。彼女の良さは、幅広く文化を積極的に受け止めたところ。例えば、彼女にとってファッションが絵画と同じような重要さを持っていました。シリアスな美術評論家の中でこのような意見は珍しいのです。

日向は特に、「身体」や「知覚」について興味を持っていました。人間の本能的なフィーリングという基本的な経験から色んな文化や美術を論じています。だから彼女にとってテレビのCM、雑誌のイラストレーション、ファッション、あらゆる大衆文化に意味がある。つまり様々な境界線を揺らごうとしていました。1968年に「プリミティヴ・アート論」というエッセイでこんな文章も書いています。

知覚性はあらゆるものの意味をぬきさる。意識よりももっと深く光を入れ、レントゲン写真のように照らす。あらゆるものが互いに同質性をみてまじりあう。男性は女性の中に自分を見、女性は男性の中に自分をみる。美術は生活の中に生活は美術の中に自分をみる。彫刻は家具となり、家具は彫刻となる。音楽は騒音化、騒音が音楽化とする。

ここで重要なのが日向の開かれた態度。彼女にとって、アートはギャラリーや美術館のみのものではありません。その代わりに私たちの「生活」に浸透するものだということ。だからすべてが「同質性」を浴びる。そうすると私たちから遠い存在として受け止める「彫刻」が近い存在である「家具」になります。「彫刻」は少しでも触れるはずのないもののに対して、「家具」は見るのではなく使うもの。中々刺激のある説だと思います。ちょっとでも日向の態度が感じられるでしょう?

そして指摘したいのが「知覚性」という言葉。この身体的な経験によってあらゆる分類が薄くなっている。そうすると、結局いいちこの広告写真は「アート」でしょうか。絶対的に「はい」でも「いいえ」でも言えなくなっているというような気がします。日向が教えてくれるように知覚こそが美術という領域の境界線を揺らがせるから。

プロフィール

ダニエル・アビー

1984年生まれ。アメリカ合衆国カリフォルニア州出身。美術史博士(UCLA)。2009年から日本の美術や写真にまつわる執筆・編集・翻訳に携わる。現在、大阪芸術大学 芸術学部 文芸学科の非常勤講師として美術史・写真史を教えている。
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