TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#1】愛する町、鎌倉① 井口生花店の二階から。
執筆:村岡俊也
2026年5月13日
自分が生まれ育った町について書くことは、自分が獲得したわけではないものについて書くようで気恥ずかしく思っていた。変わりゆく地元に対して、愛憎半ばの感情もある。だが、もう良いのかもしれない。四十年以上も自分が見てきたものを書き留めておけば、変わりゆく町の記録になるのだから。THA BLUE HARBのBOSSが歌う通り、「この街の書記官」としての役割を果たすべきだと思うようになった。
1990年代半ば、高校生だった私たちの溜まり場は、井口生花店だった。人の出入りに慣れていた生花店の裏口から入って階段を上り、幼なじみの部屋で買ってきたばかりのレコードを聞く。終電で新宿に行き、「ミロスで大暴れ」を覚えた高校二年生の時、斜向かいのビルに「カフェ・ヴィヴモン・ディモンシュ」ができた。パンク・キッズには入りづらいポップな店を、花屋の二階から眺める。ディモンシュのビルの階上には、「鎌倉美術研究所」通称・カマケンという美大予備校があって、その生徒たちが授業前にコーヒーを飲む姿を横目に、生花店へと入っていた。ディモンシュには、可愛いような無表情のようなマネキンが置かれていた。それが、groovisionsが手がけたチャッピーという実験的な試みであると知ったのは、ライターとして仕事を始めてから。ディモンシュは、その始まりからカルチャーが香るカフェだった。あれから20年以上経ってgroovisionsの作品集を手伝った際に、代表の伊藤弘さんから「村岡くんには、鎌倉の呪いがかかっているから」と言われた。その意味が、よくわかるようになった。
今回はディモンシュについてではなく、井口生花店について書きたかったのだ。
かつて生花店の隣には、殿山泰司の正妻が営む飲み屋があったという。モクモクと煙を出して秋刀魚を焼いていたことを覚えていると、幼なじみの母は言った。殿山本人は妾と共に都内で暮らし、時折、鎌倉に来ていた。テレビで見たことのある姿を見て、「ああ、本人だ」と思ったらしい。
殿山泰司『三文役者の無責任放言録』(角川文庫)に、北鎌倉の小津安二郎を訪ねて飲んだくれた記述がある。そこに、正妻が出てくる。
「翌日眼が醒めたら、オレはオレの鎌倉の家に居たね。二日酔でボンヤリしてたら、随分昔から居る変なババアがオレにオマエサンいくら酒を飲んだからって監督にオクラレル役者が何処に居るんだよ、カントクを送って帰ってくるのが当たり前だろうてやんだ」
この「変なババア」が営む店が、井口生花店の隣にあった。他のページには「オレの自宅は鎌倉にあることはあるけど、殆ど帰ったことがない。(中略)今年になってウチヘ帰ったのは3日だね。それも全部日帰りである」とあるから、「ああ、本人だ」と言ったのも頷ける。珍しかったのだ。
澁澤龍彦の妻・龍子は、よく店に来て花を買って行った。渋澤龍彦が本を出す度に持ってきてくれていたという。私が大学生になって澁澤の本を読み、その感想を幼なじみに話したら、『フローラ逍遥』という美しい装丁の本を持ってきて見せてくれた。発行は、1987年。その年に澁澤は亡くなるが、私たちが小学生の時にはまだ、北鎌倉で文章を書いていた。その事実に驚かされる。そして花にまつわるエッセイ集が、花屋の息子に残された。
同じく井口生花店と付き合いのあった作家に里見弴がいる。里見は武者小路実篤の葬儀の際に、椿が一輪だけ生けられた様に感銘を受け、自身の葬儀でも素朴な花で見送ってほしいと語っていたという。『椿』は里見の短編タイトルだ。椿が落ちる音に情感を託す小説は、白樺派の代表作でもある。葬儀の際、遺言に従って届けられた花はすべて奥の間に仕舞われた。幼なじみの祖母は、棺に素朴な和花を生けたという。
その葬儀が素敵だったと家族に語っていた祖母は、自分の葬儀について「生前には生花に埋もれて仕事をしていたから、花はいらない」と言っていた。亡くなったのは元旦だった。年末にほとんどの花を売り切ってしまい、残っていたのは胡蝶蘭だけ。一本の胡蝶蘭を棺に生けて見送ったが、参列者からは「花屋なのに、花がない」と怒られたという。
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村岡俊也
むらおか・としや|1978年生まれ。鎌倉市出身、在住。ノンフィクション・ライター。著書に『増補 新橋パラダイス 駅前名物ビル残日録』(ちくま文庫)、25歳で高松の海で亡くなった画家の評伝『穏やかなゴースト 画家・中園孔二を追って』(新潮社)。アイヌの木彫り熊職人、藤戸竹喜を取材した『熊を彫る人』のほか、『酵母パン宗像堂』(ともに写真家と共著、小学館)がある。
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