カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/乗代雄介

2023年1月13日

誰にも邪魔されずにブログを綴り、
毎朝の書き写しに没入した、
八王子ニュータウンの大学生活。

駅近くの宇津貫毘沙門天。地蔵横の細長い階段を上ると社殿があり、樹齢約300年を誇る大木、ブナ科のスダジイが鎮座。
スダ爺ではなく、椎の木だからスダ椎。

ブログと書き写しで続けた、
文章を書く練習。

「大学では絶対に一人暮らしをしたかったんです。誰にも邪魔されない環境で、ブログを書きたかったから」

 さらりとキテレツなことを言い放った、作家の乗代雄介さん。高校卒業後、19歳で千葉の実家を離れ、ひとり八王子ニュータウンに移り住んだ。名目は「法政大学多摩キャンパスに通う」だったが、その裏には「一人で暮らしてブログに専念する」という思惑が渦巻いていた。計画の発案は高校2年とちょい昔。そう、都市部に住む者にとって、進学時の一人暮らしはなかなかに険しい道のりなのだ。

「高校が進学校で、成績がいいと早稲田や慶応を受けるよう勧められるんですが、仮に受かった場合どちらの大学にも“実家から通えちゃう”んですよ。僕は当時からブログを書いたり本を読んだりしていたんですが、大学生になっても同じことをしていたら家族もいい顔をしないと思ったんです。ならば家を出るしかない。“実家から通えない”大学を受験すれば出られるぞ! と思いついたんです。それで成績を落とすことにしました」

 得意科目の国語の試験を普通に受けると、偏差値80を出しかねない。かといってわざと正解を間違えると先生にバレてしまうので、狡猾にミスる必要があった。

「問2を間違えれば関連性のある問7も落とせるな……と整合性を取ったり(笑)。そこそこの成績をキープしながら、実家から通えない、多摩キャンパスのある法政大学への進学に成功したんです」

 頭を使って低い点を取るという謎戦法で見事一人暮らしへの切符を勝ち取った乗代さん。インターネットに身を置くようになったのは中学の頃だった。

「僕が通っていた私立の中高一貫校では、みんな入学時にパソコンを買うんですね。当時にしては先進的な環境が整ってたんですけど、結局みんなネットで遊んじゃって(笑)。ホームページ全盛期で、ヤフージオシティーズでサーバを借り、HTMLをFTPでアップロードしてた時代。テキストサイトが人気で、僕もよく『侍魂』や、『ろじぱら』こと『ろじっくぱらだいす』を見てました」

 流行に押され、乗代さんもホームページを作ってテキストを公開し始めた。

「流行に乗った亜流でした。文体模写を軸に、爆笑問題さんの『日本原論』を真似た漫才口調の文体で文章を書いたりして。もう消えちゃったけど、今見たらものすごく恥ずかしいでしょうね(笑)」

 クラスメートには何も言わず、こつこつとホームページに文章を書き綴った。高校生になるとブログが登場し、投稿の場もライブドアブログやはてなブログへ。どんな文章だったかは、のちに過去の投稿を選りすぐって出版された『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』を読めば明らかだ。群像劇から戯曲の体裁を成したものまで、とりどりのショートストーリーが並ぶ。2000年代のブログの多くは日記形式の私的な文章が多かったが、乗代さんのそれは毛色が違った。しっかりと物語なのだ。

「僕がやっていたことは、周りとはちょっと違ったかもしれないですね。ネットの横書きの文章よりは、ちゃんと文学をやってたのかなって。誰かに見せるというよりはブログ上に溜まっていくのが好きで、2〜3日に1回は書いていました。授業中に何を書こうか考えて、帰宅部だったから帰って書く。夜までに終わらなかったら、翌朝柏駅の喫茶店でノートに書く。それで遅刻したことも(笑)」

 実はその頃始めた“書く習慣”がもうひとつある。「名言集を作ろう」と思って始めた、本の中の一節をB4ノートに書き写していくという写経のような行為だ。

「要は練習がしたかったんです。書き写しながら、書いている感覚をまさしく味わうというか。時々ふっと『次はこう来るな』という感覚に襲われて、実際に思ったとおりの文章が続くことがあるんです。ゾーンに入るというか。自分で始めたくせに面倒くさいなと思ってるんですけど、そのときは楽しいです(笑)」


AT THE AGE OF 20


高校の終わり頃から始めた書き写し。〈コクヨ〉のB4ノートに鉛筆でびっしりと引用文を書き込んでいる。続けるうちに引用元を記すタイトル名やページ数も付記するようになり、検索性も向上。夏目漱石から高田純次のエッセイまでジャンルは幅広い。「なんでも読みます。読む量に対して書くスピードが追いつかず、本が溜まっていくのが難点。『書き写さないと棚』を作っていたことも」。書き写すのは必ず朝と決めている。「一日それについて考えるから些細なことがどうでもよくなる。精神衛生的にも良い気がします」

 乗代さんがそれほど“書く”という衝動に突き動かされたのはなぜだろう。

「書くのが好きだったんでしょう、というしかないんですよね。ブログだから好き勝手に書けましたし。文体実験というか、練習です。文章を書く練習」

 でも、もともと国語の偏差値は高いわけで、文章は書けたはず。それでも練習をしようと思ったモチベーションって?

「小学校の頃、読書感想文で賞を獲ったときに『ちゃんと書いたし、そりゃそうだよな』と少し退屈だったんです。でも、ネットの世界を見たらめちゃくちゃで型にハマってない面白い文章ばかりで、ものすごく刺激になったんですよね。僕は文学も好きだったので、融合というか、その両方ができないかなって。そのためには練習しなきゃと思ったんです」

 その頃のネットは、画像も映像もまだ粗かった。だからネットユーザーたちは、テキストでいろんな表現を試した。コミュニケーションはメールかBBS。SNSの気忙しさはない。その牧歌的な空間も居心地が良かったのだろう。12帖のマンションで、乗代さんはブログに没頭した。時折、結婚式場や家庭教師のバイトをしながら、仕送りを頼りにつつましく暮らした。学生生活に期待を寄せてはいなかったが、図書館で宮沢賢治やカフカの全集を読めたし、メディア社会学科の授業は思いがけず楽しかったらしい。サボりがちなゼミではレポートで高評価のAを獲得し、大学2年の終わりにはゼミの先生から一通のメールが届いた。そこには「あなたの文章を読むたびに『めまい』がします」「あなたが『文章で食べられるかもしれない』と思ってしまうことも、恐れています」といった真摯な思いが綴られていた。乗代さんの才能をズバリ見抜き、称賛しながらも、彼が文才というギフトを正しく扱えるか案じているようだった。

「ただ僕自身、その頃は自分の文章が猿真似を詰め込んだようなものに思えて、褒められても素直に喜べなかったんです。でも、純粋に文章だけを評価してくれる人もいるんだ、という驚きがありました。なんというか〝読者〟という感じがして」

 熱いメッセージをもらったものの、ブログ書きたさに大学3年時に休学。ゼミも辞めてしまった。実家に戻るよう言われ、マンションを退去し千葉へと撤退。復学して卒業すると、塾講師として子供たちに国語を教え始める。その間も、乗代さんはブログと書き写しを続けた。小説を書き、賞に応募するようになってからもずっと。『十七八より』でデビューしたのは29歳のときだ。長い練習もこれで終わり、と思いきや「書き写しは今も続けています」と乗代さん。頻度は昔ほどではないものの、ノートは14冊目に。ということは、今も乗代さんは文体を探している?

「いや、ぼちぼちそういうことじゃないなと気づいてきました。書き写しをやめたら、きっと僕の文章はもう変わらなくなる。でも、それっておかしいじゃないですか。変わっていったほうがいいに決まってるんだから。文体にはこだわらなくていいし、アイデンティティを固定しなくていい。そう思えたことは、本当に良かったと思います」

プロフィール

乗代雄介

のりしろ・ゆうすけ|1986年、北海道生まれ。法政大学社会学部メディア社会学科卒業。2015年『十七八より』(講談社)で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。2021年『旅する練習』(同)で第34回三島由紀夫賞受賞。近著に『パパイヤ・ママイヤ』(小学館)。

取材メモ

八王子みなみ野駅近くのファミレスで待ち合わせ。「住んでいた頃は更地だったのになあ」と、約15年ぶりの古巣にできたホームセンターや『くら寿司』を眺め、思いを馳せる乗代さん。「開発中の町が好き」らしく、再開発で沸きまくっていた頃の舎人公園付近に住んだこともあるという。懐かしの散歩ルートだという宇津貫毘沙門天、宇津貫公園、不動産屋さんと食べた横浜ラーメン、住んでいたマンションを巡り、思い出を追体験した。