カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/今田耕司

2023年3月13日

photo: Takeshi Abe
styling: SUGI
text: Neo Iida
2023年4月 912号初出

’80年代、心斎橋で起きた笑いの革命。
一翼を担った若きエースは、
実は〝どルーズ〟だった。

〝お肌よわよわ〟が導いた、
お笑いへの道。

 優勝すれば一晩で人生がひっくり返る、お笑い界最大の賞レース『M-1グランプリ』。会場のヒリ付きは電波を超え、我々視聴者もW杯ばりに神妙な面持ちで眺めてしまう。そこをぐっとバラエティに引き戻してくれるのが、司会の今田耕司さんの笑顔と、軽妙なトークさばきだ。MCとして番組を俯瞰するしっかり者、几帳面というイメージの今田さんだが、二十歳の頃を振り返ると「いやいや、どルーズ人間でしたよ」と笑う。想像がつかないけれど、時計を巻き戻してみよう。
「中学で反抗期がきつくて、高校は三重にある全寮制の日生学園に入れられたんです。今はシステムも変わりましたけど、当時は4時半起床、便器は手で清掃とかほんま厳しくて。耐えられず8か月くらいで脱走しました」

実家に戻ると親に「高校は出てほしい」と言われ、定時制高校へと編入した。
「クラスメートの年齢も職業もバラバラで、若い不良と年配の看護師さんがよくケンカするんですよ。『漬物が臭い!』『晩ごはんやからしゃあないやろ!』って(笑)。『何やこのケンカ』と思って見てました。僕はとにかく将来が不安でしたね。学歴ないから就職は無理やろうし、作業もできひんから工場も絶対続かない。手に職付けて食っていかなあかんと。ただ喫茶店もパン屋も半日で辞めるし、夕方まで寝てるし、夜は友達と深夜喫茶ばっかり行く。親は心配したと思いますね」

 そのうちラーメン屋のバイトにのめり込み、ついに職を見つけた! と思った矢先、指に異変が。そう、今田さんは「お肌よわよわ芸人」の大親分。悲しいかな、水ぶくれができたのだ。
「皮膚科の先生に『美容師と飲食業は向いてない』と言われて夢が絶たれたんですよ。そしたらバイトの先輩が『吉本に学校あるらしいぞ』って教えてくれて。店でも一応面白いとは言われてたし、学費も4万円くらいだったんで、様子見がてら入ってみようと」

 今も友達からは「当時から面白かった」と言われるそうだが、『オレたちひょうきん族』が好きなだけで、芸人を目指すなんて夢にも思っていなかった。友達に声をかけるも断られ、今田さんはひとりNSCの門を叩いた。開校4年目のNSCは無名の学校だった。

「ジャズダンスと、チャンバラトリオさんの殺陣と、吉本新喜劇の基礎を作った竹本浩三先生の授業があったのを覚えてます。みんなライバル心が強くてピリピリしてたんじゃないかな。僕は3つ年上の板尾(創路)さんやほんこんさんと仲良くしてました」


AT THE AGE OF 20


20代前半、心斎橋筋2丁目劇場の舞台に立っていた頃の今田さん。NSCができたことで師匠に付かなくても芸人になれるしくみが生まれたわけだが、当時の吉本には師匠方の“お弟子さん”も大勢いたそう。「前座のオーディションはNSC生もお弟子さんも3分ネタを作って受けました。受かったらまず前座で、そのあとネタコーナーに。楽屋はなく、舞台近くのドア横で衣装に着替えて待機してました。あ、浜田(雅功)さんとは同じ高校なんで、劇場に入ってすぐ『後輩です』と挨拶しました」

 今でこそ芸人の活躍の場はテレビ、CM、映画と多岐にわたるが、当時は漫才ブーム後の冬の時代。テレビに出られたらいいけど、まずは舞台だ。芸人たちは漫才の殿堂、なんば花月に立つべく切磋琢磨した。今田さんも劇場に足を運ぶようになり、忘れられない漫才と再会する。

「南海ホールの週イチのイベントを観に行ったら、『見たことあるぞ?』って人らが出てて。そういえばラーメン屋時代、お昼休憩のテレビで流れてた『お笑いスター誕生!!』に、むちゃくちゃおもろいネタやってるコンビが出てたんです。それが目の前にいるダウンタウンさんやったんですよ。あのときの誘拐のネタを生で観て、衝撃を受けました」

 NSC1期生である先輩・ダウンタウンは、若手ながらすでに劇場に立っていた。その背中を追うように、今田さんもNSCでほんこんさんとコンビを組んだ。ダブルホルモンズの結成だ。
「『今田、オール阪神巨人目指すぞ!』『はい!』って感じで(笑)。無愛想やけど、喋ったら気さくな人なんですよ。ネタはほんこんさんがほぼ書いていて、月1回のNSC寄席を目標に練習してました」

 人生で初めて組んだコンビだったが、在学中に解散してしまう。
「僕がルーズ過ぎたんです。ネタ合わせに遅刻ばっかして、家までほんこんさんが迎えに来ても『あと15分』とか言って寝てて。怒って帰るほんこんさんに、父親が『息子を見捨てないでください!』って頭下げたこともありました。そんなんしてたら、『お前とはもうできひん!』て言われてしまって」

 相方がいないままNSCでの課程を終え、もう1年の在籍を決めた1986年。今田さんが二十歳を迎えるまさにその年、南海ホールが心斎橋筋2丁目劇場へとリニューアル。ダウンタウンを中心に芝居や企画が打ち出され、今田さんも前座オーディションを受けた。

「その頃、ダウンタウンさんは深夜番組のワンコーナーに出て、女子中高生に人気が出始めてたんです。だから客席はパンパン。立ち見席を作って椅子を外し、ミキサーの横にゴザまで敷いた。すごかったです。僕もネタで勝ち抜いてトップ出番をもらってから、松本(人志)さんに誘ってもらうようになりました。松本さんも若手やし、『喫茶店行こか』くらい。一緒にうどん食うてね」

 2丁目劇場を舞台に、1987年に夕方の帯の生番組『4時ですよーだ』が開始。関西にダウンタウン旋風が吹き荒れるなか、今田さんの出番も増えた。気分は3人目のダウンタウン。順風満帆で、実家を出て西成で一人暮らしも始めた。しかし、僅か数年で雲行きは怪しくなった。
「兄さんらが東京の番組に呼ばれたとき、当然僕も行けると思ってたんです。でもダメだった。『4時ですよーだ』も終わって、全仕事がなくなって」

 その頃、現会長の大崎洋さんが吉本新喜劇担当になり「やることないなら来い」と声をかけてくれた。新喜劇は800人の劇場に10人程度しか客が入らない苦しい時期。最初は嫌だったという。

「でも、入ったらこんな面白いおっさんおばはんの集団あんねや! とカルチャーショックでした。団体のおじいちゃんおばあちゃんが昼に来て、1000人くらいのキャパでバーンとウケる。若い笑いの現場にいたんで余計に新鮮で、初めて芸人の世界を知った気がしました。師匠方も面白くていい人たちばかりで、お昼食べて、飲みに連れて行ってもらって。ずっとここにおりたいなって思うくらい」

 2丁目劇場出身の若手が奮闘し、東京でみうらじゅんさんが話題にするなど、様々な要因が重なって全国で新喜劇ブームが巻き起こった。20代はブームのただなかに身を置き、そして『ごっつええ感じ』で全国区の人気者になった今田さん。だが、注目を浴びても、ルーズさは直らなかったという。何がきっかけで現在の今田さんに変わったのだろう。

「うーん、徐々にやと思うんですけど、確か『ごっつええ感じ』が終わったとき、いつまでもダウンタウンさんと一緒にやれるわけやないと思ったんですよね。『4時ですよーだ』終了のトラウマというか、前は新喜劇に助けられたけど、今度はそうはいかない。ちゃんとせなっていうのはあったかもわからないですねえ。ほんまに、今しっかりしてるとかきっちりしてるとか言われたら、二十歳の俺を見せてやりたいですよ。全く違う人間ですから(笑)」

プロフィール

今田耕司

いまだ・こうじ|1966年、大阪府生まれ。『アナザースカイ』(日本テレビ系)、『ファミリーヒストリー』(NHK)などに出演中。自身が主演を務め、鈴木おさむが脚本・演出を手掛ける舞台『正偽の芸能プロダクション』が3月15~19日によみうり大手町ホールで上演される。

取材メモ

収録前の楽屋にて。スーツ姿の今田さんの第一声が「バウムクーヘン食べや!」だったから、思わず胸の中で「テレビの今ちゃんだ!」とぐっときてしまった。興味深かったのは『ごっつええ感じ』時代の話。「収録ないときはずっとナンパですよ。松本さんと(月亭)方正と俺とで新宿と渋谷を車で回って、ラーメン食べてお茶してナンパ。東京吉本はあったけど接点があまりなくて、大阪の吉本芸人って我々しかいなかったんです。もう毎日一緒でした」

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