二十歳のとき、何をしていたか?/原口あきまさ
2023.05.13(Sat)
photo: Takeshi Abe
grooming: Yuka Kawakami
text: Neo Iida
2023年6月 914号初出
やったこともないのに、
「できます!」と言い切った。
ものまねを再構築したパイオニア。

“有名になりたい”の一心で、
小倉から東京を目指した。
原口あきまささんの登場以来、ものまね界の潮目が変わった気がする。「歌声や顔が似ている」「デフォルメする」というお決まりのネタからぐっとライブ感が増し、アドリブどんと来いの憑依芸や、掛け合いが面白い芸人が増えたように思う。そんなお笑い界のエース、原口さんの故郷は北九州の小倉。小さい頃は目立ちたがり屋の少年だったという。
「友達とコミュニケーションを取るには、ものまねがいちばんだったんですよ。数学の先生ってこういうクセない? ってマネするとみんな盛り上がって、友達の輪が広がって。だから僕、授業態度だけは良かったんです。先生そういうクセあるんだ、ってうんうん頷いてるから(笑)」
小学校から剣道を習い、高校にはスポーツ推薦で入学。剣道漬けの日々になるかと思いきや、1年で退部してしまう。
「ふわっと『有名になりたい』という夢があったんです。スポーツで有名になろうにも、剣道はオリンピックの正式種目じゃないなあと思って、二段を取って辞めました。次の人生を考えなあかんと思って、やっぱりバラエティだなと。姉ちゃんの影響でとんねるずが大好きで、3人目になりたいと思ってたくらいなんで(笑)。それで、学園祭とか体育祭のたびに友達に『俺の横に立ってそんなん言うなっちゃち! って言うだけでいいけん』って言って、漫才やコントをやってました。結構注目されてたんですよ。先生たちも自分がいじられてるもんだから校舎の窓から覗いてて。『先生、無礼講ですから!』とか言って(笑)」
部活がないぶん、福岡ダイエー(現ソフトバンク)ホークスの応援団に入り、大人気だった博多華丸・大吉さんの追っかけに精を出した。卒業を前に「東京へ行ってお笑いをやろう」と進路を決定。福岡に吉本興業の事務所はあったし、大阪に行く道もある。でも、どっちを選んでもそこから動かなくなる気がして、一足飛びに東京行きを考えた。縛られるのが苦手だから、養成所も弟子入りも敬遠。専門学校に通いながらオーディションを受けることに。東京アナウンス学院の「自薦OK」という生徒募集要綱を見て、持ちネタのものまねメドレーを持ち込み、合格した。
「親父はカンカンでした。陸上自衛隊に勤めてて、息子も自衛隊に入るもんだと思ってたし、『おじいちゃんおばあちゃんに何て言うんだ!』って。それを聞いて、アナウンサーになるって言えばいいやと。そしたらばあちゃんに『まあ、本当ね?』って嬉し泣きされちゃって……。罪悪感を抱えて東京に出ました」
美容専門学校に進学した友人と調布で共同生活を始めた。学校での主な授業は演技。だからお笑いの特別授業しか通わず、先輩が主宰するお笑いライブ用のネタを作る日々が始まった。そこで初めてチョコボーイズというコンビを組んだ。
「相方はお笑いなんて絶対やらないだろうっていうチャラチャラしたヤツでした。お互い誰とも組めずに余ってて。作ったのは学園コントですね。そいつが悪ぶったホストっぽい感じで、俺が真面目な同級生で、このギャップなんやねんみたいな。当時から僕はツッコミでした」
AT THE AGE OF 20

もうリアルしか残っていない。
辿り着いた「ものまねフリートーク」。
コンビは1年で解散。共同生活も解消し、西小山のボロアパートで暮らし始めた。学校は授業料が払えず1年ちょっとで退学。その後ラ・パニックやチャムズンなどのコンビを組んでも1年ほどで解散してしまう。そんななか、学校で講師をしていた芸能事務所ケイダッシュの社員に「バラエティ班を作るから来ないか」と声をかけられ、ケイダッシュステージの1期生に。事務所内でコンビを組んだが、これも長続きしない。
「俺、こんなに解散するってことはピンがいいんじゃねえかなと気づいたんです。周りも『ものまねやれるんだからオーディション受けてみたら?』って。それで二十歳のとき、『とんねるずが楽屋訪問したら板東英二がスキャットマン・ジョンを歌ってた』っていうネタを作りました。それで合格して、素人みたいな感じでテレビに出させてもらって」
一方でコンビの夢も捨てきれず、他事務所の人と組んだこともある。持ち前のポジティブ精神で動き続けた。
「若かったし尖ってましたから、『ものまねなんて』って思ってたところもありました。正統派の漫才とかコントがやりたかったし。でも、成人式で地元に帰ったときに『お前が学祭でやった先生のマネ面白かったよなあ』って言われて、ああ、ものまねもアリだなって思えたんです。追求すれば奥が深いし、新しいカラーにしていけばいいんじゃないかなって」
その頃、日本テレビで新しくものまね番組が立ち上がった。例のとんねるずのネタを持って意気揚々と乗り込んだ原口さんだったが、スタッフから「誰もやってないネタが見たい」と一蹴されてしまう。
「カチンときて、『誰もやってないものまね』を脳内でウワーッと描いたら、明石家さんまさんが浮かんで。『さんまさんできます』って言っちゃったんですよ。やったことないのに。それで『いやっ! ぱっ! ほっ!』ってさんまさんの口癖と動きをマネて倒れて。1分くらい繰り返してたら『いいじゃない』って。さんまさんの人気番組『恋のから騒ぎ』を軸にネタを仕上げました。メイクさんが歯科医院に勤めていた方で、出っ歯の入れ歯を作ってきてくれて、はめたら似たんです」
誰もやっていなかった明石家さんまのマネで、原口さんは一躍脚光を浴びた。さらに一足先にものまね界の先輩、コージー冨田さんがタモリさんのものまねでブレイクしていたため、さんま、タモリの疑似コンビが爆誕した。
「デフォルメはやり尽くされてたし、ものまねで残っていくにはどうしたらいいだろうって考えたときに、リアルしかなかったんですよ。リアルを追求してフリートークでいこうっていうのがコージーさんと僕の考えで、ネタの枠に囚われず話せるようになったんです。それに僕はずっとツッコミだったんで、さんまさんの間さえ覚えたらガンガンつっこめる。それも大きかったです」
その結果、ものまねが「わかる、わかる」の確認作業から、「一体どんなことを話すんだろう」の未知のワクワクに変わった。その原点は、二十歳で気づいたものまねの可能性だ。
「クオリティの先で何を見せるか考えたら、ものまねもお笑いになると思ったんです。若い頃は正統派にこだわってたけど、結果的に僕、コージーさんやJPと漫才やコントできてるんですよね」
20代の半ばには全国区で活躍するようになった原口さん。アナウンサーになると言って家を飛び出した孫が出っ歯を付けてテレビに出ているのを見て、祖母は「大変ねえ。ところでいつニュースを読むの?」と聞いたという。
「自分を追い込む嘘ならついてもいいと思います。仕事でも嘘ばっかついてますけどね。偽モンだから(笑)」

プロフィール
原口あきまさ
はらぐち・あきまさ|1975年、福岡県生まれ。ケイダッシュステージ所属。2000年、明石家さんまのものまねでブレイク。『開運! なんでも鑑定団』(テレビ東京)他、バラエティ番組に多数出演中。ものまねや音楽を織り交ぜたフェスを計画中。
取材メモ
スタジオでタカ(石橋貴明)さんの顔マネでパチリ。その後思い出の地、新宿中央公園へ。「東京アナウンス学院の校舎が近くて、よくネタ見せの練習してました。綺麗になりましたねえ」。話題は『スッキリ』最終回で加藤浩次さんが叫んだ「17年間やれたの、当たり前じゃねえからな!」。『めちゃ×2イケてるッ!』の山本圭壱さん復帰回での名台詞だが、ものまねをし続けた原口さんの功績は大きい。「言ってくれた! って思っちゃいました(笑)」