カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/伊武雅刀

2023年9月11日

photo: Takeshi Abe
grooming: NORI
text: Neo Iida
2023年10月 918号初出

街を歩けば誰かがいた。
スクリーンの向こうを夢見て、
熱い想いをくすぶらせた、新宿の夜。

伊武雅刀さん

銀幕のスターになりたい!
野方の少年は役者を目指した。

「伊武雅刀さんが演じた役といえば?」とクイズを出せば、誰もが違う作品を口にするだろう。『宇宙戦艦ヤマト』のデスラー総統、『白い巨塔』の鵜飼教授、『ROOKIES』の村山校長、『コントが始まる』の焼き鳥屋の大将……。いつの時代のどの作品でも、ダンディでコミカルな存在感を放ち、40年以上も映画やドラマに出演し続けてきた伊武さん。その「役者になりたい」という夢は、幼少期を過ごした中野区野方の映画館で育んだという。戦後間もない昭和30年代は娯楽映画が人気で、東京では駅ごとに映画館ができるほどの盛況ぶりだったんだそうだ。

「毎週土曜は朝から晩まで映画館にいました。3本立てだから、入ればずっと見られるんです。東映のチャンバラとか、黒澤明監督の作品、『ゴジラ』や『モスラ』。映画スターの中村錦之助さんに憧れて、僕もあんな役者になりたいと思うようになりました。それに、映画の世界に入れば一発当てられるんじゃないかって」

 伊武さんがそう考えたのは、破天荒な父親の存在が大きかった。国鉄職員だった父は、伊武さんが幼稚園の頃に「俺はこんなところでくすぶっている人間じゃない」と辞職。キャバレーやクラブを経営し、家に帰らなくなった。生活は困窮し、見かねた祖父母が野方の家に呼んでくれたのだ。そんな暮らしぶりだったから、映画スターの夢は伊武さんにとって一発逆転のチャンスでもあった。高校は名古屋にある私立東邦高等学校へ。そこで初めてオーディションに受かった。

「名古屋制作のNHK『高校生時代』に出演しました。でも、東京から来た共演者たちを見ていると、レベルが全然違うんです。高校を卒業したら東京で劇団に入ろうと思って、19歳で『劇団雲』の養成所の試験に合格しました。周りは大学卒業後の入団組ばかりで、僕はいちばん年下。先輩が映画デビューすると『いつか自分もああなるんだ』とワクワクしてました」

 しかし入団から1年。二十歳になった伊武さんは、突然クビを言い渡される。

「驚きました。焦って俳優小劇場に入ったんですが、そこも合わなくて。悶々としてたとき、劇団雲の知り合いが『独立して小劇団を作るから出てほしい』と。当時は安保闘争の真っ只中でしょう。内ゲバを描いた『安全保障条約』という芝居をやったんです。学生運動に触れていなくても、演じるのは楽しくてね。『養成所に行きながらでいいから』と誘われたんですけど、旗揚げを機に辞めました」

 劇団を立ち上げたものの、ギャラがもらえるわけではなかった。当時は恵比寿の3帖ひと間、トイレ共同の安アパート暮らし。生活費を稼がねばと高田馬場でバイトを探し、建築現場の単発仕事で日銭を稼いだ。やがて野方の家がアパートに建て替えられ、わずかな家賃で住まわせてもらうことに。ただ、いまだ仕事といえる仕事はない。こうなると若い役者がやることはひとつ。飲むことだ。

「もう毎晩ゴールデン街。だって、仕事もないのにアパートで悶々としててもしょうがないじゃない。電車賃と日本酒一杯代だけ持ってウロウロして、誰かに会ったら飲ませてもらう。野良犬みたいで、だらしなかったなあ。仲間と『芝居作ろう!』と盛り上がって、チケットを売って、それでもギャラなんて出ない。そういう底辺の役者生活を何年かしてました。でもお金に困った感覚はないんです。将来の不安もなかったなあ。そもそも家にテレビがなかったですから。誰かと比較するのも嫌だし、アイツが羨ましいみたいな感情も持ちたくなくて。俺は俺って突き進んでいくうえで、障害になるものは持たないようにしていた気がします」


AT THE AGE OF 20


伊武さん20代の写真
21、22歳頃、奈良の神沢創作舞踊研究所特別公演で行われたシェークスピアの舞台『タイタス・アンドロニカス』に客演したときの写真。ローマ帝国のゴート族討伐が背景にあり、シェークスピア戯曲のなかで最も残虐性が高いとも呼ばれる異色作。伊武さんは重要な役回りであるムーア人のアーロン役を演じた。当時は客演の機会が多かったという。「芝居をやっている人間たちがたむろする飲み屋で知り合って意気投合したり、友達の友達から頼まれたりして、いろんな小劇団の舞台に客演しました」

ラジオMCがきっかけで、
『スネークマンショー』へ。

 少しばかり風向きがよくなったのは、声の仕事をするようになってからだ。

「僕ね、声が良かったんですよ。でも昔はすごく嫌だったんです。養成所の講師に『声がいいね』と言われると、『声だけですか?』ってムッとして。でも、ラジオのオーディションに受かって、番組のMCを担当することになったんです」

 なんと、23歳でFM東京の毎週土曜24時のゴールデンタイムのラジオMCに大抜擢! ジャズミュージシャンの渡辺貞夫さんの番組で、伊武さんが曲紹介やエピソードを話し、渡辺さんがゲストとセッションをする構成だ。協賛の資生堂が〝青春〟を軸に据えたことから若者の起用が望まれたそうなのだが、ラジオ経験のない伊武さんをメインにするなんて。ここから声の仕事が増えていく。

「その頃、小林克也さんに出会うんです。小林さんは番組に色々出演されているFM東京のヌシみたいな人で、毎日のように局に来てました。知り合った縁で、僕も『スネークマンショー』に出ることに。番組開始当初はウルフマン・ジャックというキャラクターが曲紹介をする音楽番組だったんですけど、僕が参加するタイミングでコントドラマが始まって」

 1976年に始まった小林克也さんと桑原茂一さん、そして伊武さんの3人による『スネークマンショー』は、尖ったネタとコミカルなキャラクターによるコントドラマが話題となり、若者に絶大な支持を得た。YMOのアルバム『増殖』にもコントが収録され、いわゆるサブカル的な人気を文字どおり増殖させていく。

「レコードも出してライブもやりました。前髪をぴっちり真ん中で分けた畠山桃内というキャラクターのまま『コンタック』や『トヨタ』のCMに出演したことも。楽しかったですよ。稼げるようになりましたしね。でも、キャラクターを演じているだけで、役者をやっている感覚はない。世間からは『変なヤツが番組に出てる』って思われてる。とにかく早く映画に出なくちゃって焦ってました」

 念願の映画デビューは32歳。筒井康隆原作の短編スラップスティック小説を中村幻児監督が映画化した『ウィークエンド・シャッフル』に出演した。

「自己評価はひどいもんですよ。なんだこの間の抜けた役者は、って。理想とかけ離れていて愕然としましたね。でもすぐに『ションベン・ライダー』で相米慎二監督に出会えて、映画監督と役者の関係とはどうあるべきか教えていただいたんです。それで見えてきたものがありました」

 ’80年代は、KADOKAWAが新人女優や新人監督を起用し、多くの日本映画を生み出した時期。伊武さんも出演の機会をもらい、俳優としての足場を固めていった。なんでも、角川社長は『スネークマンショー』のファンでもあったという。20代で葛藤した声の仕事は、しっかりとのちの役者人生に繋がっていたのだ。

 二十歳の頃を振り返れば、「あの頃はギラギラしてましたね」と伊武さんは言う。

「よく『強面』と言われたし、僕もとりあえず眼力で抑え込もうとしちゃって(笑)。下手な生き方だと思います。もし今、あの頃の自分が目の前にいたら、一緒に何かやろうとは思わないもの。うまくやれなくて遠回りしたことで『伊武さんの経歴は異質ですね』と言われるけど、そのおかげでいろんなことが繋がってるんです。本当に縁だなあと思いますよ」

伊武雅刀さん

プロフィール

伊武雅刀

いぶ・まさとう|1949年、東京都生まれ。1967年の『高校生時代』より多くの映画、ドラマに出演。『宇宙戦艦ヤマト』などのアニメ作品、アラン・ドロンなど洋画の吹き替えも。現在、自宅近くの畑で野菜を栽培中。収穫風景はインスタグラムで。

Instagram
https://www.instagram.com/ibumasatoh_official/

取材メモ

「久しぶりに来たなあ」と渋い声を響かせながら、思い出の新宿ゴールデン街をブラリ。昔は飲み仲間を探すお決まりのルートがあったそう。「まず末廣亭辺りから『山小屋』『どん底』を回る。誰もいなければこの辺を抜けて、しょんべん横丁まで。これを3周くらい繰り返してました。必ずいるんですよ。友達の先輩なのに『ちわーす』とか言って飲ませてもらって(笑)。スマホもない時代によく出会えてたよねえ」