カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/クォン・ヘヒョ

2023年6月12日

photo: Naoto Date
coordination: Hyojeong Choi (TANO International)
text: Keisuke Kagiwada
2023年7月 915号初出

偶然に導かれて足を踏み入れた演劇の道。
ラッキーすぎるその歩みを支えていたのは
いつも胸に秘めていた大人への反抗心。

今回の取材は、「アルコ芸術劇場」の近くで1956年から続く渋い喫茶店『学林茶房』で決行。ヘヒョさんは20代の頃から通っていて、写真で座っているのは尊敬する大先輩の定位置だった席だそう。

浪人仲間に背中押され、
進学した大学の演劇学科。

 ソウルの中心部に位置する大学路には、洒落た若者たちが行き交う傍ら、いくつもの小劇場が軒を連ね、まるで下北沢のようなバイブスが漂う。とするなら、若手演劇人たちの憧れの聖地「アルコ芸術劇場」は、「本多劇場」みたいな小屋と言えるかもしれない。そんな“到達点”と呼ぶべきステージに、25歳にして立ってしまった青年がいる。最近ではホン・サンス監督作の常連などとしてお馴染みのクォン・ヘヒョさんだ。しかも、プロの役者としては、これが初舞台。当然、幼少期から映画や演劇に熱中し、俳優に憧れ続けてきたのかと思いきや、実はヘヒョさん、大学に入るまで演技にはまったく興味がなかったという。

「私はもともと国語と歴史と哲学に興味があり、大学ではその辺を専攻しようと思っていました。だけど、1回目の受験では希望の大学に落ちてしまったんです。それで1年浪人したんですが、前年より成績が悪くてやっぱり希望の大学には受かりそうにない。そんなとき、3人いた浪人仲間のうちの1人が『みんなで演劇学科に行ったら面白いんじゃない?』と言い出して。それもいいかなと漢陽大学校の演劇学科を受験したら、受かってしまったという(笑)。当時は、面接がなく、高校の成績と小論文だけで受験できたから、受かったんでしょうね。今のように、演技力やビジュアルまでも審査されていたら、おそらく入れませんでした。いずれにしても、その友達のひと言がなければ、演技を学ぶなんてことはしなかったでしょうね」

 浪人生がやむをえず行けそうな学科を選ぶという話は珍しくない。ヘヒョさんの例が珍しいのは、そんなふうに偶然に導かれて歩み始めた演劇の道が、すこぶる性に合っていたことだ。

「人生において、何かを学ぶことにのめり込む時期というのが誰にでもありますよね? 私にとってそれは大学時代だったんです。実際、演劇にまつわるあらゆることを吸収しようと、4時間しか寝ないなんて日々もありました。そのせいか、学科ではいつも一番の成績でしたね。これは自慢ですが(笑)。なぜここまでのめり込めたのかといえば、演劇を通してコミュニケーションの喜びを知れたからというのが大きいと思います。韓国の高等教育では、他者への理解を深める時間があまりなかったので。俳優は、共演者や演出家や作家や観客と常にコミュニケーションをしなければなりません。それが何より楽しかったんです」

 しかし、演劇に熱中する日々は、21歳のときに一時休止を余儀なくされる。兵役に行かなければならなかったからだ。日本人には馴染みがなさすぎて、「さぞ辛かったでしょうに」とつい声をかけてしまいそうになるが、ヘヒョさん的にはそうでもなかったらしい。

「私の父は軍人だったんです。ベトナム戦争にも参加して、かなりいい地位についていたので、軍隊には演劇よりはるかに親しみがあったんですよ(笑)。驚くかもしれませんが、高校2年くらいまでは自分も将来は軍人になりたいと思っていたくらいですから。だから、訓練自体に大変なところはなく、ここでも成績はいつもトップでしたね。入隊後、各部署に配属される前に6週間の訓練を受けるんですが、それが終わるとだいたい5㎏から10㎏は体重が減るといわれているところ、5㎏太ったのは私くらいじゃないでしょうか(笑)。軍隊というのは非論理的な命令で動く社会なので、その精神的ストレスはありましたが、同時にそこでの生活は、北朝鮮との関係を含む韓国の置かれた政治的状況についても深く考える初めての機会になりましたね」


AT THE AGE OF 20


ちょうど二十歳のときに先輩に誘われて参加した、映画の撮影現場での一コマ。ただし、俳優ではなく美術部の下っ端だった。「初めて一般社会に触れた時間でしたが、大人も自分たちと大して変わらないと知れて楽しかったですね。少なくとも男は中2から成長しないんだろうなと思いました(笑)」。

収入や地位が安定しても、
人生は“今日より明日が大変”

 3年の兵役期間を終えたのち、復学したへヒョさんは、さらに演技の勉学に励む。そして卒業後、プロの役者としての1発目の舞台が、冒頭で紹介した「アルコ芸術劇場」での公演だ。演目はラジカルな演劇を追求したドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト作の『セツアンの善人』。物語のキーマンである3人の神の1人を演じたというから、幸先がいい。そればかりか、時同じくして、韓国を代表する巨匠イ・ジャンホ監督の『ミョンジャ・明子・ソーニャ』や大ヒットしたテレビドラマに出演するなど、絵に描いたような順風満帆な俳優人生が幕を開ける。へヒョさん自身も「『舞台役者が映画やドラマの世界に活動の幅を広げるのは難しかったでしょ?』と聞かれますが、私の場合、まったく苦労はしてません。本当にラッキーだったなと思うばかりです」と微笑みつつ、「ただラッキーなだけでは、ここまでやってこれなかったとも思いますが」と言葉を継ぐ。

「大学の頃は、周りに偉そうな先輩がたくさんいたんですよ。ちょっと有名なだけで偉いと勘違いしたり、弱者への理解がなかったり、自分の政治観を無理やり押し付けてきたりするような。そして、後輩は基本的に彼らに教えを請わなければなりません。私は大学1年の頃、既にそれは間違いだと思っていましたし、『どうしたら先輩みたいな大人にならずに済むか』ということばかり考えていました。それが当時の思考の8割を占めていたと言っても過言じゃありません。いずれにしても、そういう考えを抱いていた時期があったからこそ、ラッキーをものにできたのかなと思います。だから、若い人には、年上だからというだけで尊敬する必要は必ずしもないんだと伝えたいですね。そして、年を取ったら自然といい人になれると思わず、今この瞬間にいい人になることが大事なんだ、と。もしかしたら、後輩には『お前こそ偉そうな先輩じゃないか』と思われているかもしれませんが(笑)」

 いやいや、物腰が柔らかくて、あらゆる質問に真摯に答えてくれると同時に、ユーモアも忘れないヘヒョさんには、偉そうな先輩感は皆無ですよ! それにしても、日本の演劇人は食べていくのが大変で、バイト掛け持ちはマストとよく聞くけど、ヘヒョさんはそういう苦労もしてこなかったのだろうか。

「それは韓国の演劇人も同じですよ。大ヒットドラマに出演したとしても、終われば収入はなくなりますから。ただ、私の場合、バイトの経験はなく、親のスネをかじり続けたんですが(笑)。私は29歳のときに結婚したのですが、当時の月給は50万ウォンでした。よくそれで結婚したもんだと今は思います。だから、さっきとはまた違うアドバイスになりますが、親のスネはかじれるだけかじるに限る(笑)。まぁ、それは冗談ですが、親のサポートを受けずに自立できたのは、30代に入ってからですかね。ただ、確かに30代に入って、収入だったり社会的な地位だったり、持てるものは増えましたが、それで安心していてはいけません。人生っていうのは、いつだって『今日より明日が大変』なものですからね」

プロフィール

クォン・ヘヒョ

1965年、韓国・ソウル市生まれ。近年の出演映画に『オマージュ』『呪呪呪/死者をあやつるもの』『福岡』『あなたの顔の前に』『新感染半島 ファイナル・ステージ』『隠された時間』。6月30日より日本公開するホン・サンス監督作『小説家の映画』に出演している。

取材メモ

1991年に初来日して以来、何十回と日本を訪れているというヘヒョさん。「あるとき、『冬のソナタ』(ヘヒョさんは同作でキム次長を演じた)のパチンコ台ができたというので見に行ったら、みんな『ヨン様来い! あ、なんだキム次長かよ!』と言っていて悲しくなりました(笑)」。近々、プライベートでの来日を控えているようで、「日本といえば、生ビール。昼からサッポロビールを飲むのが最高なんです」と語っていた。