カルチャー
二十歳のとき、何をしていたか?/青野利光
2026年9月10日
photo: Takeshi Abe
text: Neo Iida
2026年9月 953号初出
作ったもので喜んでくれたら嬉しい。
雑誌を読み、音楽を聴き、世界を歩き、
裏方志向が拓いた、編集者人生。
雑誌とラジオが情報源の少年に、
つくば万博がもたらしたディスコ。
ひとつのテーマを掘り下げ、見聞きした出来事を分厚いテキストで届けてくれる雑誌『スペクテイター』。編集人の青野利光さんは、大学を卒業してすぐに仲間と雑誌『バァフアウト!』を創刊した。ずっと編集に軸足を置いてきた青野さんは、少年時代にどんなものを吸収してきたんだろう。
「小さい頃はお泊まりに行けない引っ込み思案な子でした」。そう話す青野さんの生まれは茨城県の水戸市。父親は証券会社勤めで転勤が多く、約2年ごとに県内や栃木を転々としたという。小学校5年生で移った埼玉県越谷は、東京に近く、文化の薫りがするアーバンシティだった。
「よく近所の本屋に友達と雑誌を買いに行きました。当時は『ポパイ』をはじめ『アニメージュ』とか投稿雑誌の『ポンプ』とか雑誌がバーッと創刊され、のちに雑誌黄金期といわれた時代。ジャンルを問わず、子供向けじゃない大人の雑誌を読んでいましたね。小学校6年生のときに『アングル』っていうタウン情報誌に吉祥寺の地図が載っているのを見て電車で出かけて、喫茶店の重い扉を開けて大人の世界を垣間見る、ということをやってました」
中学に上がるとラジオに夢中に。『サウンドストリート』『サウンドブレイク』、在日米軍が流すFEN(極東放送網)をカセットで録音し、ミックステープを作った。
「ませてました。同級生がアイドルの話をしてると、それよりこっちだよねってニューウェーブとかパンクばかり聴いて。日本の音楽はどろくさい感じがしたのかなあ」
中学校で茨城に戻り、高校は公立の進学校へ。そして1985年、3年生の頃に地元でつくば万博が開かれた。大阪万博のような一般博とは異なる科学に特化した専門博で、NEC、富士通、IBM、三菱、松下など名だたる企業がパビリオンを構え、静かな学園都市は突如賑やかになった。何より青野さんにとって特別だったのは、隣町にできたディスコの存在だった。
「万博の影響でできたんです。僕はTechnicsのSL-1200を触りたくて、そこでバイトしてる友達がいたから、DJの手伝いをするかわりに営業前にちょろっとレコードを聴かせてもらってました。ディスコには一日の流れがあって、最後は流行のユーロビートをガツンと流すんですが、早い時間はコンテンポラリーやソウルがかかり、チークタイムもある。その緩やかな流れが好きだったし、音に触れるだけで楽しかったです」
当時の青野さんは、S.O.S.バンド、アレクサンダー・オニール、シェレールといった、BPMが100〜110くらいのメロウなコンテンポラリーサウンドが好きだったという。さらにドラムやパーカッションを電子音で自動演奏させるリズムマシンが登場し、その音を取り込んだ音楽もよく聴いていたそう。ところで音楽好きならバンドをやるという選択肢はなかったんだろうか。
「裏方志向なんじゃないですかね。表に立つのがもともと好きじゃない。でも、編集も同じだと思うんですけど、裏方として自分が作ったもので喜んでくれるのは嬉しいなと思ってました」
AT THE AGE OF 20
大学1年の青野さん(右上)は、LAからニューヨークまでのアメリカ大陸横断を計画。東海岸と西海岸を体験する理由は「マルコム・マクラーレンがプロデュースしたThe World’s Famous Supreme Teamが大好きだったから」と「ビート・ジェネレーションの影響を受けていたから」の大きくふたつ。しかしアメリカに着いて胸を躍らせたものの、序盤のラスベガスまでバスで11時間もかかったことで「やってらんねえ!」と横断をストップ。飛行機でJFKへ飛んだという。翌年、大学2年生の青野さん(左上)はロンドンのフラットで1か月過ごし、アシッドハウスのムーブメントを目撃。そして大学3年生の青野さん(下)は夜シフトの『CAY』に加え、日中は代官山の『ハリウッドランチマーケット』でアルバイトをしていた。ボスの垂水さんのユニークかつ個性溢れる佇まいに感銘を受けたそう。
クラブ通いの果てに、
始まったフリーペーパー制作。
進路のことは何も考えていなかったが、卒業のための補習を受けたとき、政治経済を丁寧に教えてくれる先生がいてがぜん興味が湧いた。政治経済学部を受験しようと、実家から1時間半かけて代々木の予備校に通うことに。午後から原宿校舎で授業があると徒歩で移動し、浮かせた電車賃で国内外の雑誌を買った。『ギャラリー360°』や『オン・サンデーズ』には、ニューウェーブカルチャーを編集した日本発のアート・カセットマガジン『TRA』、アンディ・ウォーホルが作った『インタビューマガジン』、アーティストのゲイリー・パンターの『ジンボ』など、原宿には感度の高い雑誌が集まっていたのだ。みっちり勉強し、明治大学政治経済学部に合格。「入学したら勉強しなくなりました(笑)」という青野さんだが、八幡山での一人暮らしと本格的なクラブ遊びが同時スタートしたわけだから、確かに勉強どころじゃない。
「日中は学校で死んだようにして、夕方から夜24時まで働いて賄いを食べ、夜はクラブ。クラブカルチャー全盛期で、西麻布だったら『TOOL’S BAR』や『CLUB JAMAICA』、飯倉片町なら『プレステージ』と、パンク、レゲエ、ハウス、ヒップホップ、様々なジャンルの箱があったんです。友達と『今日は水曜日だからあそこに行ってみよう』と出かけていました」
バブル前夜で海外渡航がしやすくなり、1年生でアメリカ、2年生でロンドンを旅した。そして3年生で青山のスパイラルにあった『CAY』で働き始める。外資系の商社マンや業界関係者が訪れるレストランで、月に1〜2回はレゲエのミュージシャンやニューオーリンズのブルースのミュージシャンが演奏を行っていた。同僚はカルチャーに明るい人が多く、そこで出会った山崎二郎さんと意気投合をしたという。
「彼も雑誌に詳しかったから、自分たちでも作れたらいいねと。同時に『CAY』の向かいの地下に『MIX』というクラブがあって、川辺ヒロシくんとか荏開津広くんとか藤井悟さんが日替わりでDJをやっていたんですけど、そこで自分たちのイベントをやろうよって。山崎くんはポエトリーリーディングを、僕はアシッドハウスのDJをやりたい。さらに音楽好きなDJ予備軍を集めて『クラブ・クール・レジスタンス』というイベントを始めました。その告知も兼ねてフリーペーパー『プレス・クール・レジスタンス』を発行することに」
とはいえ紙媒体なんて作ったことはなかったから、ワープロの文字を切り貼りして版を作った。そのうち『CAY』づてにデザイナーを頼り、ぐんと読みやすくなった。
「山崎くんは広告を取ってくるのがうまくて、僕はその経費でコラムやインタビューを書きました。表紙にアレン・ギンズバーグの詩を載せたりして。ただ、読まれている実感がなかった。渋谷の某クラブのゴミ箱にドバッと捨てられてるのを見て、やる気出ないねと。じゃあ500円でもいいから値段を付けてちゃんと売ろう。それで雑誌を作ることにしたんです」
その間、青野さんは商社に就職する。「商売を学べる職種で納品書を書くとかビジネスの基本を一回見ておこう」と考え、2年間と期限を決めての入社だった。働きながら『バァフアウト!』の創刊準備号の制作を進め、『MIX』で知り合った少し年上の編集者、北沢夏音さんも加わり、主に音楽を扱うカルチャーマガジンが誕生した。CDが登場して音楽業界に活気があり、広告もよく入った。営業も自分たちで行い、創刊号は約3000部が売れて重版もした。その後、青野さんは商社を辞め、『バァフアウト!』のための会社を立ち上げ、20代は雑誌制作に奔走することになる。二十歳の頃を振り返ると「何がやりたいか、自分でもよくわかってなかったかもしれません」と青野さんは言う。
「今だってよくわからないんですから(笑)。ただやってみないとわからないし、やっていくと見えてきたりするんだな、ということはわかってきた気がします。それにあの頃はとにかくいろんなものを見たい欲求があった。海外に行くとかイベントをやるとか、実現できて良かったと思います。スクエアな世界の外側にも人生はあるし、それを見る機会を得られた。あの頃の体験が自分を作っていると思います」
プロフィール
青野利光
あおの・としみつ|1967年、茨城県生まれ。1992年に山崎二郎、北沢夏音と『Bar-f-Out!』を創刊。1999年に『SPECTATOR』を創刊。2001年に有限会社エディトリアル・デパートメントを設立。雑誌、Webなど幅広く編集・執筆を手掛ける。
取材メモ
『Bar-f-Out!』編集部は、ハンズ渋谷店前のノアビルに入っていたんだそう。「今でいうスタートアップな感じで、最初は社員が5〜6人だったのが数年で10人くらいに増えました。そのうち僕の役割も運営に近くなって、面倒くさくてドロップアウト。会社の隅にパソコンを1台置いて、好きなことをやろうと思って始めたのが『SPECTATOR』です。アイドルとか芸能人より現実社会で起こってる変なことを集めたいと思ったし、商業誌だとオリジナルの長い記事はなかなか書けないけど、そういうことをやりたいって言ってくれた人たちがいたからノータイアップにしました。記事は100%自分の思うことを書いたほうがいいし、5000字を超えるとリアルが出て、1万字ぐらいで素っ裸な感じが出る。それが面白いじゃないですか」
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