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呼吸/文・上白石萌歌

ひとりがたり Vol.35

2026年9月30日

ひとりがたり


photo & text: Moka Kamishiraishi
illustration: Jun Ando(uruo)

「はい、それでは次第に眠くなっていきますからねー、5つ数えます、5、4、3、2……はい終わりましたよ〜お疲れ様でした〜」

体感として自分の身体に流れた時間は3秒ほどだったが、時計を見るともう3時間も経過していた。ぱちんと指を鳴らして大掛かりなマジックにかけられていたみたい。今まで味わったことがないような深い眠りの海の中にぐっと潜り、すぐに思い出したかのように水面から顔を上げたような感覚。その3時間だけ生きている世界の外側にいたような、なんとも不思議な心地だった。

今から約2年ほど前、わたしは鼻中隔湾曲症の手術をした。鼻中隔湾曲症とは、鼻を隔てている仕切りのようなものが通常よりも曲がっていることで鼻詰まりなどが起きやすくなる病気だ。10代の終わり頃から慢性的な鼻炎になりやすく、特に舞台やライブの本番前はナーバスになりがちなので体調をよく崩し、声がなかなか出づらかったり、鼻から息が抜けづらかったりしてかなり悩まされていた。ある日、ずっと通院している耳鼻科の先生に「これは今のうちに手術しておいた方がいいかもしれないねー」と言われ、手術を決意。3泊4日の入院、さらに術後1〜2週間ほどは安静にしておかなければならなかったため、前もってスケジュールを調整してもらい、準備万端で臨む。

迎えた入院初日。入院は5歳の頃におたふく風邪を患った時以来だから20年ぶりぐらいか。足を踏み入れた病室はしん、と整っていてすこし心がこわばるような、安心するような、どっちつかずな気持ちで揺れていた。家から持ってきたたくさんの本や、貝磨きセット(貝と何種類かの紙ヤスリが入ってる、どこかの博物館で買ったもの)で時間を潰しているとうとうととしてきて、いつも通り割とすんなり眠りについた。

目が覚め、いよいよ手術日当日。手術は全身麻酔で行われる。予定していた時間になると青色の手術衣を着て麻酔用のストッキングを履き、自分の足で歩いて手術室に向かう。手術室に向かうまでのことは意外なほど淡々としていて、なんだかちょっと拍子抜けした。だが、銀色の手術台に寝そべった瞬間、ぞぞぞと体の奥の方から寒気のようななにか冷たいものが襲ってきて驚いた。これから手術を受けるのだ、という実感がやっと込み上げてきた瞬間だったのかもしれない。冷えた手を麻酔科医のお姉さんが包み込むように握ってくれ、麻酔のための点滴の針が腕に刺さる。

しばしの間意識がトリップしたのち、誰かの呼びかける声とストレッチャーの車輪のガラガラと回る音で目覚め、無事に手術が終わったことを知る。はじめての全身麻酔、痛みや恐れを一切感じることなく時間だけが過ぎていて、なんだか唖然とする。医療の技術と、先生方のプロフェッショナルには本当に頭が上がらない。わたしの両鼻にはガーゼがぎゅうぎゅうに詰まっていて(カバオくんみたいだった)、しばらくは鼻で呼吸することが許されず、なかなか寝付けない日々を病室で過ごしたが、無事に退院。わたしのひとときの入院生活は幕を閉じたのであった。

あれから2年、驚くべきことにわたしは一度も耳鼻科に行かなくなった。ずっとずっとわたしを悩ませていた鼻炎と無縁の人生になれるだなんて…。全ての季節を心置きなく楽しめるようになり、どこへ行くにも持ち歩いていた箱ティッシュともおさらばだ。あらためて、自分の身が健やかであることの大切さをしみじみと感じる。

しんと静まり返った病室の天井を見つめながら、ぼんやりした頭でひとりあれこれ考えたこと、何もしなくても夜は更け、朝日がのぼり、それでもごはんは3食きっちり食べたこと、華麗なマジックのようだった麻酔の時間、手術後のコンクリートで押し固められたみたいな鼻の中…。ほんのひとときに過ぎないかもしれないが、忘れ難い入院生活だった。あきらかに前よりも呼吸しやすく軽やかになった両鼻で、今日も息を吸っている。

入院中にやっていた貝磨きセットです。

ひとこと
わたくしadieuが主題歌を務めさせていただいております映画「我々は宇宙人」が公開されました。きっとこのような形で携わっていなくとも、自分の人生に必要な作品になっていただろうな、と思うほど、強烈で、かけがえのない作品になりました。ぜったいに観てほしいです!!

上白石的テーマソング:あまみず/高木正勝

プロフィール

呼吸/文・上白石萌歌

上白石萌歌

かみしらいし・もか|2000年生まれ。鹿児島県出身。2011年、第7回「東宝シンデレラ」オーディショングランプリを受賞。12歳でドラマ『分身』(12/WOWOW)にて俳優デビュー。ミュージカル『赤毛のアン』(16)では最年少で主人公を演じた。映画『羊と鋼の森』(18/東宝)で第42回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。主な出演作にドラマ『義母と娘のブルース』(18/TBS)、『教場Ⅱ』(21/フジテレビ)、『警視庁アウトサイダー』(23/テレビ朝日)、『ペンディングトレイン-8時23分、明日 君と』(23/TBS)、『パリピ孔明』(23/フジテレビ)、『イグナイト –法の無法者–』(25/TBS)、『パンダより恋が苦手な私たち』(26/NTV』、映画『366日』(25/松竹)など。今後は2027年1月より放送予定のドラマ『デンジャラス』(NHK)への出演が決定している。2017年からはadieu名義で歌手活動も行っており、現在配信中の新曲「ささくれ」はアニメーション映画『我々は宇宙人』の主題歌となっている。