ライフスタイル

ひとり体験記 その2 「温泉-ちょっと遠出編-」/文・上白石萌歌

ひとりがたり Vol.30

2026年4月30日

ひとりがたり


photo & text: Moka Kamishiraishi
illustration: Jun Ando(uruo)

わたしはいま、天国にいちばん近いところにいる。
ささやくように聞こえる川のせせらぎの音、差し込む太陽のやさしい光、ぽかぽかとほんのり熱を持った身体。もうかんぺきだ、何もいらない。畳に寝そべり猫のように伸びをすると、わたしは完全に世捨て人になった。

久しぶりの丸一日の休みだった。ここ数ヶ月は忙しない日々が続いていて、休みの日もだいたいセリフを大量に覚えたり、新しい曲のデモを録ったり、文章を書いたりしてあっけなく時間が過ぎ去ることが多いので(むしろ休みの日のほうがやること多くてやばい)こんなにもからっぽな気持ちになるのは本当に久しぶりだ。こんなふうに深く呼吸ができるのはいつぶりだろうか。狭い水槽を飛び出してゆらゆらと広い海を泳ぐ魚のように、開放感と高揚とやすらぎとが全身をかけめぐる。

こんな貴重な休日の使い道は、もう数週間前から心に決めていた。ひとりで温泉だ!いままでも何度も銭湯やらへは出向いたことがあったが、ひとりで温泉に出向くのは初めてだった。最近は結構しゃかりき頑張ってたし、思い切って遠出しちゃおう。

午前中のうちに家を出て、特急電車に乗りこむ。家から持ってきたサンドイッチと玄米茶でお腹を満たしながらスピッツを聴く。晴れた日のスピッツって本当に最高だ。きょうは『不死身のビーナス』と『ロビンソン』な気分だな。車窓から景色を眺めながら一曲一曲にねむる思い出と揺れていたら、2時間強であっという間に駅に着いた。

バスを乗り継ぎたどり着いたのは、なんとも厳かな風情の建物。湯治としての利用が一般的なようだが、日帰り入浴もできるとのことだったのでここに決めていた。大浴場の他に個室の貸し座敷もあるようなので、人の目を気にせずゆっくりすることに。なんとありがたいことに、お座敷のおひとりさま割りもあったので迷わずそうさせていただく。おひとりさまloverなわたしにぴったりすぎる場所。神様ありがとう。

女将さんに案内してもらい、がらりとお座敷の引き戸を開けると、だだっ広い畳にちゃぶ台がひとつ。窓からは大きな川が見えて、鳥のさえずる声が聞こえる。えっこれだけで大満足なんですけど…!もう帰ってもいいくらい。だがこれは、幸せの幕開けに過ぎなかった。

お座敷利用者専用の露天風呂があるようなので行ってみることにする。少し歩いた林の中にあるらしいのでサンダルに履き替えてペつ、ペつと石の道を歩く。暖簾をめくるとそこには、泉のように澄んだお湯が風にそよいできらきらと揺れていた。先客はおらず、なんとラッキー、ひとり占めだ!

つま先から浸かり、ゆっくりと体があたたかなお湯を受け入れてゆく。つめたい風が頬を撫で、見上げると薄青い空に雲が小さく浮かんでいた。なんて、なんて幸せなんだろう…!泣けてくる。この目に映るすべてのものたち、木々も、空も、太陽も、川も、ぜんぶわたしだけのものだぞ、となぜか叫びたくなる。
目を閉じると、忙しなく過ぎ去っていった日々が走馬灯のように思い起こされる。わたしはあの殺人的日々を走りきっていまここにたどり着いたんだ。ほんとありがとわたし。これからもわたしはわたしを諦めずにやってのけるわ。胸のなかで小さく誓いを立て、ひみつの露天風呂を後にした。

その後も大浴場を楽しんだりご飯を食べたりお昼寝をしたりしてあっという間に時間が過ぎ去った。火照った頬、ミネラルウォーターがこんなにも美味い。心がすこやかになると、ほんの小さな幸せでも大きく胸に広げられるのだということを知る。

お風呂の看板に “湯ではどなたもただの人 浮世の風も吹かば吹け“ と書いてあった。まさしくそうだ。お風呂の中ではみんな赤子のように、生まれたままのつるりとした心になれる。そこにはいつでも自由というものがひらかれているのだ。温泉という文化のある国に生まれてきたことを改めて誇りに思った。

今日も今日とて、“帰ったら寝るだけ“。素晴らしいオアシスを手に入れたわたしはこれからもきっと大丈夫。つるりとした心で帰り道を歩いた。

ひとこと
この文章のほとんどをその場で、お座敷で書きました。いつもの⅕のスピードで書けたので、文豪のようにこれからも通い続けようと思います^^

上白石的テーマソング:Log_20250704/宮内優里

プロフィール

ひとり体験記 その2 「温泉-ちょっと遠出編-」/文・上白石萌歌

上白石萌歌

かみしらいし・もか|2000年生まれ。鹿児島県出身。2011年、第7回「東宝シンデレラ」オーディショングランプリを受賞。12歳でドラマ『分身』(12/WOWOW)にて俳優デビュー。ミュージカル『赤毛のアン』(16)では最年少で主人公を演じた。映画『羊と鋼の森』(18/東宝)で第42回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。主な出演作にドラマ『義母と娘のブルース』(18/TBS)、『教場Ⅱ』(21/フジテレビ)、『警視庁アウトサイダー』(23/テレビ朝日)、『ペンディングトレイン-8時23分、明日 君と』(23/TBS)、『パリピ孔明』(23/フジテレビ)、『イグナイト –法の無法者–』(25/TBS)、『パンダより恋が苦手な私たち』(26/NTV』、映画『366日』(25/松竹)など。2017年よりadieu名義で歌手活動も行っており、5枚目のEP『adieu 5』が絶賛発売中。
5月30日にはワンマンライブ「adieu Live 2026 bleuir」がKT Zepp Yokohamaにて開催される。

Instagram
https://www.instagram.com/moka____k/

X
https://twitter.com/moka_____k