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ひとり体験記 その3 「ギャッベを迎える」/文・上白石萌歌

ひとりがたり Vol.32

2026年6月30日

ひとりがたり


photo & text: Moka Kamishiraishi
illustration: Jun Ando(uruo)

“ギャッベ(Gabbeh)“をご存知だろうか。ペルシャ語で「ざっくりした」という意味で、転じてイランの遊牧民が手織りする毛足の長い絨毯のことをいう。無論わたしは“ギャッベ“を知らないまま26年間を過ごしてきた。だがとある日から、“ギャッベ“はわたしの心の大部分を占めるようになったのだ。

出会いは唐突だった。友人とお茶をしたある日の帰り道、たまたま通りかかった絨毯フェア。何気なく足を踏み入れた店内には絨毯がびっしり敷き詰められていて、なんだか遠い異国へきたような気持ちになった。まだだれの足にも踏まれていない絨毯はどれもつるりとしていて絵画のよう。よかったらすこし見ていかれますか、とご親切に店員さんが一枚一枚持ち上げて見せてくれるうちに、わたしの中にひそかに眠っていた絨毯への憧れがむくりと立ち上がり、気がつくとそれらを食い入るように見ていた。

こっくりしたアイボリーとネイビーが繊細に混ざり合うthe 絨毯!といった感じのもの、花と鳥がモチーフのゴージャスなもの、鮮やかなブルーが一面に広がる気品のあるもの。職人さんの手仕事を感じる作品たちはどれをとっても同じものがひとつもなく、すべて息を呑むほどうつくしい。つい胸の前に両手を重ねながらうっとり眺めていると、ふと一枚の絨毯に目が留まった。

さまざまな濃淡のグリーンで丁寧に織り込まれた、草原のような豊かな一枚。毛の一本一本がふっくらとまあるく、さっきまで見ていた絨毯よりも明らかにふくよかな感じがする。ところどころにあしらわれた草木の模様はどこかのんきな感じがして、一瞬でわたしの気持ちをくつろがせた。

「そちらはイランの遊牧民が手織りしている“ギャッベ“といいます。ふんわりとした厚みと耐久性が特徴で、30〜40年持つので長くお使いいただけます。草木染で、濃い緑はレモンの葉、アーモンドグラス、黄緑はジャシール(イラン南部に分布している背の低い木のことだそう)、ザクロの皮、レモングラスなどで染色されています。」

惹かれる、すべてに惹かれる…!わたしは全ての言葉を聞き逃さぬよう、前のめりで相槌を打った。絨毯といえば赤色が主なイメージだったが、緑の絨毯がこんなにもさわやかで素敵だなんて…。この子をわたしの部屋に迎えてみたい。きっと変わり映えしないちいさなリビングが、このギャッベによってオアシスと化し、わたしの心を解き放ってくれるに違いない。すぐにでも連れて帰りたかったが、衝動買いするにはあまりにも大きな買い物だ。一カ月ほどじっくり冷静に考えて、それでもふと夜中に思い出すようであればそれはもう恋だから、そのときに考えよう。

こうして一カ月が経過した。忙しなく過ごす日々の中でも、やはりわたしの頭のなかにはあの輝く緑のギャッベが居座り(なんなら待ち受けにしてた)わたしは揺るぎないものを確信していた。むしろギャッベへの気持ちは出会った頃より増すばかり。思い切って絨毯屋さんに連絡したところ、お店で見たいくつかの絨毯を自宅に持ってきてくれ、実際に試し敷きさせてもらえるとのことなので、ありがたくそうさせていただくことにした。

試し敷き当日、お店のお姉さんが台車にたくさんの絨毯を乗せてうちにやってきてくれた。実際に部屋に敷いてみないとわからないことがあるそうなので、店頭で気になっていた寒色系のいくつかのギャッベも含め、いまある家具とのバランスを見て慎重に考えたい。部屋まで運び、台車から一枚絨毯を持ち上げてみるとそのずっしりとした重さに体ごと持っていかれそうになり、一瞬ふらっとよろめいた。ギャッベは上質な手織りのウールがぎっしりと詰まっているので女ひとりで持ち上げるにはかなりの力がいる。だがその重さまでもが幸せで、うきうきと心を跳ねさせながら一枚一枚部屋に敷いてみる。

ほうほうなるほど、絨毯によってこんなにまで部屋全体の雰囲気が変わるものなんだ。ブルーの絨毯は空間をきりりと締め、ジェントルな気品をくれる。鳥やお花が散りばめられたものは案外家具や日用品ともなじみ、お店で見ていた時よりもずっとほがらかな表情に見える。一枚一枚絨毯を敷き変えてゆくと、なんだか甘い夢を次々と見させてもらっている気持ちになった。どの夢からも醒めたくない。わたしは完全に絨毯というものにくびったけだ。

いよいよお目当てのグリーンのギャッベの出番がきた。胸の高鳴るままに敷いてみると、唖然とする。完璧だ。一面爽やかな色合いなのにどこか落ち着きや深みがあり、和やかさと威厳のどちらもがある。ひとり暮らし記念で思い切って買った大切なカーキのソファとの相性も抜群だ。しばらく美術館のように手を後ろで組んでまじまじと見惚れる。裸足で踏み入れてみると、ウールの毛のひとつひとつがやわらかく包み込んでくれ、まさしく草原のようだ。ちいさな部屋に突如として現れた、わたしだけの特別な草原。部屋中のすべての壁が外側にぱたりとひらかれ、あたたかなイランの風が吹き抜けてゆくような気持ちになる。

その日からそのギャッベは、わたしのものになった。わたしにしてはかなりの奮発だったが、人生をかけて大切にしたいものに出会えたことの喜びに満ち満ちている。手に入れては捨て、を繰り返すよりも、心からときめいたものを長く使うかっこいい大人でありたい。ときにはただただ眠るためだけに帰っていた部屋が、ひとつのギャッベによってこんなにも煌めいてみえるんだなあ。大の字に寝そべってだらしなく伸びをする。

泥みたいなどうしようもない気持ちを抱えて帰る日も、小躍りしながら帰る日も、わたしにはわたしだけの草原が待っている。そのことがどんなに頼もしく誇らしいことか。たいせつに踏みしめながら日々をやっていこうと思う。

ひとこと
映画『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』を観に行きました。スターウォーズシリーズにあまり精通していない自分でも大いに楽しめ、気がつくとぼとぼと泣いてました。武器を失ってからが本当の戦いだなあと思うなどした。グローグーの可愛さったらもう……!!

上白石的テーマソング:ひとつだけ/矢野顕子

プロフィール

ひとり体験記 その3 「ギャッベを迎える」/文・上白石萌歌

上白石萌歌

かみしらいし・もか|2000年生まれ。鹿児島県出身。2011年、第7回「東宝シンデレラ」オーディショングランプリを受賞。12歳でドラマ『分身』(12/WOWOW)にて俳優デビュー。ミュージカル『赤毛のアン』(16)では最年少で主人公を演じた。映画『羊と鋼の森』(18/東宝)で第42回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。主な出演作にドラマ『義母と娘のブルース』(18/TBS)、『教場Ⅱ』(21/フジテレビ)、『警視庁アウトサイダー』(23/テレビ朝日)、『ペンディングトレイン-8時23分、明日 君と』(23/TBS)、『パリピ孔明』(23/フジテレビ)、『イグナイト –法の無法者–』(25/TBS)、『パンダより恋が苦手な私たち』(26/NTV』、映画『366日』(25/松竹)など。今後は2027年1月より放送予定のドラマ『デンジャラス』(NHK)への出演が決定している。2017年からはadieu名義で歌手活動も行っており、5枚目のEP『adieu 5』が絶賛発売中。7月29日に発売される新曲『Wanna me』はTVアニメ『本好きの下剋上 領主の養女』2クール目エンディングテーマに決定している。

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