カルチャー

映画の”着替え”について考える。Vol.3/小澤京子

『薔薇の葬列』(松本俊夫)

2026年6月19日

illustration: Shigokun
text: Kyoko Ozawa
edit: Keisuke Kagiwada

 毎月ひとつのテーマを掲げ、4人の執筆者にそれにまつわる映画エッセイを寄稿してもらう「映画の〇〇について考える。」。今月のテーマは、衣替えのシーズンにちなんで”着替え”。今週は表象文化論を研究する小澤京子さんが、日本におけるアヴァンギャルド映画の金字塔、『薔薇の葬列』を取り上げてくれた。

『薔薇の葬列』/小澤京子

『薔薇の葬列』は、古代ギリシア悲劇『オイディプス王』を、男性と女性、異性愛と同性愛を鏡像反転させたパロディであると同時に、化粧も含めた着替えとそのプロセスが、人間関係における地位の転換や性を移行する過程を象徴的に示す映画でもある。

 エディは新宿のゲイバー「ジュネ」でトップ人気の若い店子(みせこ)であり、オーナーの権田とは肉体関係にある。かねてより権田の愛人でもあったジュネのママ、レダにとっては、自らの地位を二重に脅かす存在だ。『オイディプス王』は父殺しと王の交代、そして母との同衾という禁忌をめぐる物語だったが、『薔薇の葬列』で殺されその地位を簒奪されるのは、二種類の「母」、つまりエディの実の母とゲイバーの「ママ」であり、物語にカタストロフをもたらす近親姦の相手とは、生き別れた実の父である。

 第一の母殺しは、エディの少年時代に、文字通りの「母」に対して行われる。実母と見知らぬ男との性行為を目撃したエディは、包丁で母を滅多刺しにする。この殺害が起こる少し前に、エディが鏡台の前でこっそりと口紅を引き、母に見つかって平手打ちされる場面がある。後の華やかな「ゲイボーイ」への変貌を予告すると同時に、エディの「母になりかわりたい」という願望をも仄めかしているかのようだ。

 第二の母殺しは、レダを自殺に追い込み、店の「ママ」の地位を奪うことで完遂される。エディがママに就任したことを示すドレスアップは圧巻だ。カールを高く盛り上げ膨らませた髪型に、額に垂らしたエキゾティックなヘッドアクセサリー、派手なアイメイクに星型のつけぼくろと、新たな女王の君臨にふさわしい。エディの装いは、一代前のママ、レダの体現する古い秩序が葬り去られたことも暗示する。いつも和装を着付け、日本舞踊の女形でもあったレダとは対照的に、エディは同時代のモードを反映したファッションとヘアメイクをコロコロと変えてみせ、店では客と陽気にゴーゴーダンスに興じる。

 映画に登場する「ゲイボーイ」たちは、基本的には「男性と女性の間を揺れ動く存在」として描かれている。そして、この性をめぐる移行や振幅は、しばしば身体を装い加工するプロセスとして映写される。とりわけ、エディの化粧や身づくろいのシーン。意外なほど素朴で簡素な素顔――かつて実母と暮らしていた頃の少年のままの顔――が、皮膚の上をパフやブラシが滑るごとに、妖艶なゲイボーイ「エディ」へと変容してゆく。他方で、レダが権田の前で女物の着物をはだけてすねを覗かせ、伸びてきた体毛を剃る場面もある。それは「女の体」を保つための手続きであるとともに、意図的に演出された「女らしい」しどけなさと、演じられた「女」のほころびとが共存する瞬間でもある。

『薔薇の葬列』は、映画内の虚構と外部の現実とを行き来し、ときにその境界を混乱させる作品である。撮影中のセットを写し出す「映画内映画」の趣向、出演者たちへのインタヴューの挿入、時系列の把握を乱すモンタージュなど。そしてこの性質は、作品のなかで「着替えること」が担う機能――二つの性の越境と往還が繰り返されるうちに、二つの領域を隔てる境界そのものが、実は一つのフィクションかもしれないことが暴き出される――とも共鳴しているのではないだろうか。

プロフィール

小澤京子

おざわ・きょうこ|専門は表象文化論。著書に『都市の解剖学』『ユートピア都市の書法』、共著に『シャルル・フーリエの新世界』『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』など。

作品のあらすじ

『薔薇の葬列』

松本俊夫監督

新宿のゲイバー「ジュネ」でカリスマ的魅力を誇る少年エディは、経営者の権田と関係を持ったことで、嫉妬する店のママと対立するようになるが……。エディを演じているのは、若き日のピーターこと池畑慎之介だ。

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