カルチャー

映画の”怖い話”について考える。Vol.3/筒井武文

『何がジェーンに起こったか?』(ロバート・アルドリッチ)

2026年7月20日

illustration: Shigokun
text: Takefumi Tsutsui
edit: Keisuke Kagiwada

 毎月ひとつのテーマを掲げ、4人の執筆者にそれにまつわる映画エッセイを寄稿してもらう「映画の〇〇について考える。」。今月のテーマは、夏といえばということで、”怖い話”。3週目は映画監督の筒井武文さんが、ロバート・アルドリッチ監督による怪作『何がジェーンに起こったか?』を紹介してくれた。

『何がジェーンに起こったか?』/筒井武文

 いわゆるホラー映画とされる作品の多くは、怖がらせようと手練手管を使い、ヒロインの恐怖に観客を一体化させるが、それがなかなか映画自体の恐怖に至らない。では、映画の真の恐怖とは何か。単なる人物への感情移入ではなく、得体の知れないものに、映画が変わってしまうことだ。それは怖さのレヴェルが変化していき、恐怖の定義が撹乱されることではないか。

 ロバート・アルドリッチの『何がジェーンに起こったか?』(62)は、そうした好例である。事故で下半身付随となった元女優ブランチ(ジョーン・クロフォード)は、かつて舞台の子役スターだった妹のジェーン(ベティ・デイヴィス)の世話の下に、自身の邸宅の2階で車椅子生活を送っている。およそ30年前の自動車事故を起こしたのは、ジェーンだと噂されている。

 アルドリッチは、一作毎に、形式的実験を試みる映画作家である。ここでの映画的発明といえば、ズーム・アップの本質を踏まえた用法だ。キャメラの位置を変えずに対象を大きくしていくズーム・アップは、それまで前進移動の簡易的な置き換えとして使われてきた。しかし、アルドリッチは、ズームを恐怖の表現と連携させ、表現の二重性として用いた。ジェーンにより外部との接触を阻止されたブランチが助けを求める手段は電話しかない。ジェーンは2階のブランチの電話を取り上げてしまう。車椅子で階段の上に来たブランチは、降りる手段がない。ここで、階段上から階下の電話へのズーム・アップが挿入される。電話が手に取れるように拡大されるが、その距離が近づくわけではない。これほど、彼女の願望と絶望的な距離を同時に示す技法はないだろう。

 さらに、ブランチは助けを求める手紙を丸めて、2階の窓から隣家の主婦の下に投げる。足元に落ちるが、彼女は気づかない。そこに、ジェーンが帰ってくる。ふたりの間の路上の手紙にズーム・アップ。一旦ジェーンから隠れるブランチが再び地面を見たときのズーム・アップ。そこに手紙はない。ジェーンが拾ったとしたら、どんな酷い仕打ちを受けることになるのか。この無へのズーム・アップほど恐ろしいものがあろうか。ここでは、希望と絶望がふたつのショットに分かれて、表現されたのである。

 もう一度、階下の電話へのズーム・アップが来る。今度はブランチの捨て身の行動の前触れとなる。そこから始る悲劇。電話の物語から、扉の物語へ移行する。ジェーンに解雇されたメイドが屋敷に忍び込む。ところが、ブランチの部屋には鍵が掛かっている。メイドはジェーンと鉢合わせし、警察に電話すると脅し、鍵を受け取る。そして、扉が開かれる瞬間における恐怖へと展開される。

 アルドリッチは室内を闇にしない。暗さが基調だが、あくまで明晰に輪郭を伝える。ホラー映画の見えない恐怖とは一線を画すのだ。その極めつけが、白昼の眩しいビーチが舞台のラスト・シーンである。屋敷のホールでの真俯瞰を反復するように、海水浴の群衆に囲まれたベビィ・ジェーンの砂浜でのダンスが俯瞰でズーム・バックされ、滑稽にも見える不条理な恐怖として映画は閉じられるのである。

プロフィール

筒井武文

つつい・たけふみ|1957年生まれ。映画監督、東京芸術大学名誉教授。主な監督作に『孤独な惑星』『自由なファンシィ』『ホテルニュームーン』など。著書に『映画のメティエ 欧米篇』『映画のメティエ 日本篇』がある。

作品のあらすじ

『何がジェーンに起こったか?』

ロバート・アルドリッチ監督

ベティ・デイヴィスとジョーン・クローフォードの豪華共演で贈るサスペンス・ドラマ。かつて名子役“ベビー・ジェーン”として人気を博した妹ジェーンと、遅咲きながら実力派女優として名を馳せた姉のブランチ。人気絶頂期にブランチが車の事故で下半身不随となり、姉妹は古い屋敷で人目を避けるように暮らしていた。立場の逆転したジェーンは、押え付けられていた鬱憤を、陰湿ないじめで晴らそうとする。