将棋ファイル

糸谷哲郎/九段

2026年8月17日


photo&edit: Masaru Tatsuki
text: Fuya Uto

――将棋は何歳から始められましたか?

5歳から、幼稚園の年長ですね。読書が一番好きでしたが、ある日にニュースで将棋を見て、父親に「将棋って何?」と聞いたことが始まりです。いざやってみると、父はルールを知っている程度で弱かったので、始めてから1週間で勝てました。「大人とも互角に戦える」ということに魅了されましたね。自分の頭で全てを決められる、その公平さが良かったんだと思います。

――将棋には、暮らしのなかでどのような役割があると感じますか?

一つ大きいのは、おじいちゃんから孫まで、世代が違っても一緒に遊べることですね。例えばゲームだと、上の世代の方はなかなか入りづらいですが、将棋は祖父と孫、あるいは親子で対局できたりと、広い年齢層のコミュニケーションツールになっているのが魅力だと思います。今はもう、さすがにゲームにならないので自分は指しませんが、年末年始に親戚一同で楽しむ風景というのは、言葉を超えた対話じゃないでしょうか。

――糸谷さんにとって将棋の経験が人生に活きていると思うことはありますか?

上手くいかないときに、色々な考え方ができるようになるというのは大きいですね。人間の思考は大抵の場合、直感的に一つ答えが出て、その近辺をふわっと考えたり、元から自分の知っていることならばいくつかの「検討」をつけることが多い。将棋もそうで、一つの局面に対して何十手も指せる手はあるものの、浮かぶのはだいたい2〜3通り。なので、それをシュミレーションしてみて全てうまくいかなかったとき、「自分が探していない手」を掘り出す必要があるんです。初めの検討を改め、広く考えてみる。そういう作業は、将棋だけでなく人生においても効いているのかなと思います。

――スポーツ選手のように、体が先に反応するような感覚はありますか?

そうですね。高いレベルのプレイヤーで言えば、反射的なもので動いている方も多いんです。棋士は1秒ほど局面を見れば相手の手が思い浮かぶので、そのとおりに指していても結構強いですが、それじゃダメな場合の対処法として、言語化や理論が必要になります。とはいえ、僕はむしろ言語化は邪魔なものになりかねないと思っています。中島敦の『名人伝』に、弓を打つ名人は最後は自分が何を手にしているかも忘れてしまう、という話があります。哲学者マルティン・ハイデッガーが言うように、初めは釘を打つ際に注意しなきゃいけないけれど、職人になるとハンマーを気にせず淡々と打てるようになる。自転車もそうですよね。「どう漕いでいるか」と聞かれても「漕いでいるから漕いでいる」としか言えない。その動きに自分の体が習熟していれば、認識や言語化は後回しでいい。分析していても、言語以前の反射のスピードには追いつかないですから。将棋も、ある種の身体的な慣れが重要だと思っています。

――糸谷さんの「脳内盤」は、どのような形や色をしていますか?

僕はネット将棋をたくさんやってきたので、パソコン画面で映る盤面のようなものが出て、駒を動かせる感じです。色は茶色。そこではシュミレーションをしつつ、違う視点を作ることもあります。自分の正面にある盤を、横や後ろから、なんなら盤をひっくり返して見てみる。そうすると、ちょっと違う手が浮かんだりもするんです。

――日常生活の中で将棋の視点で考えてしまう瞬間はありますか?

「詰む」という表現をしたり、単語が将棋に寄ることはありますね。あとは1か0かの思考、つまり勝つか負けるかしかない競技なので、どうしても勝ちたがってしまうところはあるかもしれません。その上で気をつけているのは、オンとオフをきっちりすること。常に考えていたら脳が焼けてしまうので、インプットとアウトプットのバランスが大切だと思います。

――情報過多の現代において、意図的に「考えない」のも大事だと思っています。率直にコツはありますか?

読書ですね。読んでいるときは受動的になれるので、能動的な思考はあまり使わずに済みます。携帯の画面よりも、普通の紙の本の方がいい。情報を単にインプットするだけではなく、休むための読書というのがあってもいいのかなと。僕は日々、将棋を指しすぎているので、離れるときだけは純粋になりたいんです。将棋は考える幅が広いので、人間の頭で把握しきれないところまで考えてしまうので。

――もし将棋をやっていなければ、何になっていたと思いますか?

本を出せていたらいいな、とは思います。作家や研究者とか、そのあたりが志望ではありました。何かを突き詰めたり、研究したり、深掘りしたりするのが好きなんだと思います。できるなら物語を書きたいですが、今ぶつけられるものとなると、やはり将棋の話になっちゃいますね。

――将棋はごまかしが効かない世界なのでしょうか?

いや、ごまかしはありますよ。結果にごまかしは効かないですが、実際の盤面上では「ごまかそう」と思っていることは多いですから。というのも、悪い局面だと普通に指していたら負けるんです。つまり、相手に間違えてもらうしかないので、ミスを誘う。普通のことをやっても勝てない場合に「ごまかし力」は必要ですね。

――そういう勝負の世界での経験は、人生の学びになっていますか?

将棋というのは結局、人と人の戦いなので、「相手の思考を把握する」というのは学びになっていますね。人の思考量はそれぞれ違うので、そもそも人が出す結論もさまざまあることを受け入れられるようになります。

――観察する力や、客観視する力のようなものでしょうか?

自分の思い込みを一瞬捨て去る、ということはできるようになります。哲学的には、「人間は色眼鏡で世界を見ているようなもの」だと言われています。その色眼鏡も偏見だったり、これまでの経験だったりさまざま。すなわち誰もが一定の角度からしか世界を理解していないので、その「自分の前提」を一旦取り払えるかどうかが僕は大事だと思います。

――それは将棋を続けていくなかで学べることでしょうか?

そうですね。まず初めに、自分なりに「この手がいい」と検討をつけるわけですが、一方「なぜ自分はそういう検討をつけたのか」を問う作業が必要になります。そうすると、自分のフィルター(眼鏡)がわかってくるんです。「自分はこういう見方をするんだな」「こういう傾向があって、ここを過大評価しがちだな」と。そういう手癖のような無意識の反応を修正していくことが、将棋を続けていくと重要になっていきます。僕の場合、あまり人が検討をつけないような形が好きなんですね。お互いに想像つく形ではなく、自分の見識を捨て去りレンジを広げてみる。勇気がいるけれど、どこかでやらなきゃいけない作業だと思っています。そうしないと理想的な成長はできないから。特に最近はAI時代なので、どうしても余計な検討や見識が邪魔をします。昔から30年も積み重ねてきたことが「悪手だ」と学術的に証明されてもなかなか捨てられないけれど、そこを捨て去れるかどうか。

――それは自分に言い聞かせるしかないと。

実践だったり、思考の仕方で変えていくしかないですね。いつも同じ思考をしていると、その神経ばかり強化されてしまうので、たまには突拍子もないことを考えるのも重要です。そもそも、将棋ソフトのように初手から最後まで読む計算量は人間には不可能です。だから、「わからないものを決断すること」が必要なんじゃないでしょうか。将棋でも生活のなかでも、進んでいったらこういう局面になるだろうという形成判断は必要不可欠ですが、自分がその場面(局面)をなぜいいと思っているかは、実際は“感覚”でしょう。理詰めでなく、身体感覚に近いかもしれません。棋士は読みの極致のようなことをしていながら、身体感覚に左右されているのは面白い話ですよね。目から入る感覚や身体感覚はそれほど重要なんです。

――相手を観察する力、場を読む力、勝負勘。将棋の思考は色々なことに繋がりますね。

例えば原始的な時代だと、動物と戦って肉を獲らなきゃいけない。そのときの“勘”や“作戦”に近いかもしれません。獲物がどういう生活スタイルで、この時間帯にここに来るから、こう待ち伏せしようと、活路を見出す。そういう思考は今の時代でも繋がっていると感じます。僕は身体能力には自信がないので、獲物の動きを把握して、勝つポジションにつくまでが戦いですね。

プロフィール

糸谷哲郎

いとだに・てつろう|1988年、広島県生まれ。九段。17歳でプロ入りし、2006年に新人王戦で優勝。2014年の第27期竜王戦で自身初のタイトル「竜王」を獲得。長年、将棋界最高峰のクラスであるA級に在籍するトッププレーヤーでありながら、現在は日本将棋連盟の常務理事も務める。今年2026年に行われた藤井聡太名人との対局でも大きな注目を集めた。