カルチャー

想像力を節約する技術

文・村上由鶴

2025年5月31日

米・アリゾナ州であった殺人事件の裁判で、3年前に亡くなった被害者が人工知能(AI)で再現されて、自ら(!)意見陳述を行ったというニュースがありました。陳述文は遺族が書いたもの。

「私を撃ったガブリエル・ホルカシタスへ。あの日、あのような状況で出会ったことを残念に思う」
「別の人生では、私たちは友人になれたかもしれない」
「私は赦しと、赦しの神を信じている」

この陳述に、なんと被告人は涙。裁判長もこのAIについて「とてもよかった」と好感を示したのです。
裁判では、生前の被害者の写真をAIに学習させて、被害者を「復活」させていましたが、これはつまりディープフェイクの技術によって、「死人に口無し」を克服する(かのように見せる)例です。亡くなった人とも会話できる(ような気になれる)ということによって救われる人もいるでしょうが、なぜだかこのニュースにはかなり居心地の悪い思いがします。

おそらくこれは、このようなAIの活用が、ディープフェイクによる不同意ポルノとか、市民を騙すための政治家のフェイク動画などに使われているのを知っているから。少なくともわたし個人は、この技術そのものに対する偏見に気がつきました。

そもそもAIの活用に限らず、写真や映像などのイメージに関する技術は、その登場初期には「拒否感」を持たれるもので、それがその都度乗り越えられてきたと言えます。
写真に関して言えば、幕末から明治期の日本では、「写真に撮られると魂が奪われる」という迷信があって、写真に写ることが忌避されていました。ヨーロッパでは、写真がスピリチュアリズムと結びついて(めっちゃうさんくさい)心霊写真の流行につながりました。デジタル写真技術が出てきた時にも「写真は死んだ」と宣言した人がいましたし、実はカラー写真技術が出たときにも抵抗感を口にする写真家がいました。インスタグラムや美肌アプリも、当初は(おそらく女性や若者を軽視する観念とも結びついて)、揶揄されがちな技術だったと思います。それらは今では、ほとんど葛藤なく使われる技術になっているので、AIを使ったイメージ技術に対する偏見も、割とすぐに打ち破られるのかもしれません(なお、ディープフェイクは不同意ポルノでの活用と結びついて発展してきた経緯もあるし、具体的な被害があり、被害者がいます)。

このように、どんな技術も最初はどこか「悪そう」に見えるものです。新しいものは、過去に大事にされていた価値観を壊すかもしれないという不安を呼び起こすし、その不安が偏見として表出することも珍しくありません。このような技術に対する偏見に先回りするように、先述の裁判の意見陳述を書いた遺族はこのように発言しています。

「これ(AI)は強力なツールなので、私たちは倫理とモラルを意識して今回のことに取り組みました。ハンマーは、窓を割ったり壁を壊したりするのに使えると同時に、家を建てる道具としても使える。私たちはこのテクノロジーを、後者として使いました」。

遺族の方が言うように、確かに技術は単なる技術であって、そこに偏見を抱くべきではないのかも、という気もしてきます。

でもやっぱり、亡くなった人を「復活」させてわざわざ発言させるまでもなく、殺人は痛ましいことだし、嘘の復活がもたらす感動によって量刑が変わるとしたらそれは裁判所への疑念にもつながりかねません。
さらに言えば、そもそも亡くなった人との対話は、日本的に言えば、仏壇とか、墓石を前にして(その人は本当にはそこにいなかったとしても)声をかけるということでなされてきたりしたわけです。物音がしたら、「お盆だから戻ってきてるのかもね」とかなんとか言ったりするように、「いない人」とのコミュニケーションは想像力とちょっとの諦観によって補われてきたとも言えるでしょう。

AIはこれらを「動く顔」と「本人の声」で表現できるものですが、それが幻想にすぎないという点では、これまでのいない人との対話とは大きくは変わりません。姿や声が再現されることで、わたしたちは「いないこと」や「ないこと」を、想像力で補う能力を節約しているとも言えるかもしれません。とはいえ、これは、写真や映像の登場の時にも同じように懸念されていたのではないでしょうか。

現状、AIで表現された「いない人」の言葉には、どうしても「まだいる」誰かの意図が強く反映されてしまいます。このことも、ディープフェイクが「ろくなことに使われていない」印象に加えて、この技術に対して反射的な拒否感を覚える理由のひとつでしょう。

AIに「語らせること」は、「そこにいない人を想うこと」と一致しないし、AIが表現する「言葉」と「姿」は、わたしたちの想像力を補うというよりはむしろ妨げてしまっている気がします。
「見えないもの」と向き合っていくことはどんどん難しくなっているのかもしれませんね。
ではまた!

プロフィール

村上由鶴

むらかみ・ゆづ|1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻助教。専門は写真の美学。光文社新書『アートとフェミニズムは誰のもの?』(2023年8月)、The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。