カルチャー

熱狂の偽造

文・村上由鶴

2023年7月30日

美術館とかアートギャラリーのような展示の空間で、スマホを取り出し展示物を「撮る」のは、その空間を「歩く」のと同じくらい自然な振る舞いになっています。わたしたちはベルトコンベアに乗せられているかのように、ひとつひとつの作品の前を焦れるような速度で移動していきますが、ある作品から次の作品に移るきっかけになるのは「その作品の写真を撮り終えた」タイミングだったりしませんか。

以前、デジタル化し、誰でも加工ができ、そのうえAIが自動生成もできる現代の写真が証明するものは、「そこに写っている光景が真実である」ということではなくて、「その写真のまわりに人間の熱狂がある」ということではないかと書きました(「いま、写真に証明できるものはあるか?」)。美術館やアートギャラリーでみんなが「作品の写真を撮りながら歩みを進める」のもこのあらわれと言えると思います。

当時、わたしは、「写真はそこに写っているものを証明する装置」から「熱狂を証明する装置」に移り変わったかのように書いていましたが、そもそも、写真が持っていた「証明する」性質が、「本当に真実を示していたのか?」という点も、そこまで確固たるものではありません。

というのも、確かに写真は「現実の世界をそっくりそのまま写す」→「真実を写す」と考えられていましたが、この前提が、スピリチュアリズム(心霊主義)のために使われたこともありました。
そう、いわゆる心霊写真です。

90年代から00年代にかけて日本のテレビ番組で流行した心霊写真は、その多くが一般の人々が撮影した「やばいなにかが写り込んでいる・・・!?」写真を番組で募集し、あの定番のBGM付きで紹介するものでした(いまでは、カメラの性能が上がったことによって、みんなが上手に写真を撮れるようになり、心霊写真の投稿番組はほとんど目にしなくなっています)。が、実は最初期の心霊写真は、プロフェッショナルな技術をもつ人たちのものでした。

写真がまだ大衆にとっては珍しい技術であり、まだ持ち歩きのしやすいカメラが発明される前、Medium(=メディウム)と呼ばれるプロの降霊師や霊媒師たちは、霊の存在や自分の霊能力を証明するために写真を撮ったのです。
そうした霊媒師のひとりにウィリアム・マムラーという人がいましたが、超絶野暮なことを言えば、残念ながらその彼が作った心霊写真は多重露光の技法を用いた捏造でした(これについては浜野志保著『写真のボーダーランド: X線・心霊写真・念写』 に詳しく書かれています)。

このとき、マムラーたちのような霊媒師たちが写真を使ったのは、
「幽霊が写っている写真」+「写真は真実を写す」=幽霊の存在の証明
になると考えたからでした。

これを踏まえると、そもそも心霊写真は、幽霊という存在に対する人間の熱狂だけを証明していたのであり、最初の最初から、写真は人間の熱狂しか証明していなかったのかもしれません(いつだって捏造・偽造・加工・修正は行われてきたのですから)。

さて、これを踏まえて現代の美術館やギャラリーで写真を撮るわたしたちに意識を戻しましょう。
実際、ある作品を「撮る」とき、これを忘れたくない!とか、また見たい!みたいな、静かな熱狂(あるいは感動や興奮)がきっかけになっていることは少なくありません。

しかしながら、アートが展示されている空間における撮影が、ときどき「熱狂しているふり」のための装置になっているのではないか、と思うこともあります。
いわば「社交辞令の褒め言葉」の代わりになるような「社交辞令の撮影」と言ってもいいでしょうか(私自身そういう撮影をしたこともあると思います)。
つまり、
「写真が熱狂を証明している」+「私がある作品を撮影する」=私はこの作品に熱狂している
という調子です。

しかもこれは、わざわざ「写真が熱狂を証明している」なんて考えて行われているのではなくて、ごく自然に、むしろ、マナーや心遣いのポーズとして行われていると思います(このように、写真はひとびとの意識にすっかり浸透しているということも、先ほど紹介した以前の記事で書きました)。仕上げにSNSにその写真を投稿すれば「社交辞令の写真」が完成します。

他方で、「社交辞令の撮影」には矛盾していますが、本当にとっても素敵だなと思う光景(風景でも作品でも)に出くわした時、なんだか撮影するのが無礼に感じられることも少なからずあります。
特にあの、スマホの撮影音の無礼な、不作法な音。どう考えても、自分の感動の純度や大きさに見合ってない気がする。とはいえ、それで撮影しないでいると、熱狂あるいは感動や興奮をいまいち表現できていないような気がして、結局撮影しちゃう、ということもあったりするのです・・・。

ここまで来ると、「写真を撮る」という振る舞いが持つ意味に、使い手のこちらが囚われすぎかもしれませんが、熱狂・感動・興奮を感じる前に、作法としてカメラを向けているとすれば、写真は、結局、真の熱狂も、感動も、興奮も証明しないということになります。
そう、もはや、写真は熱狂の偽造の装置です。
写真が、「真実を証明する」ということが、感覚としてもほとんど成立しなくなって久しい現在、写真は、わたしたちの日常的な使用方法によって、「偽造」のメディア(メディウム)としての性格を日々強めているのかもしれません。ではまた!

インフォメーション

村上由鶴

むらかみ・ゆづ|1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院博士後期課程在籍。専門は写真の美学。光文社新書『アートとフェミニズムは誰のもの?』(2023年8月)、The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎Plus「現代アートは本当にわからないのか?」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。