カルチャー

写真に撮れないダンスから考える「見る」経験のいろいろ

文・村上由鶴

2022年6月30日

写真に撮れないもののことをよく考えます。

実物で見た方がいい風景やもの、あるいは、倫理的に撮らない方がいいこと・・・。そんなものは実はあげればキリがないほどたくさんある気がします。

一方で、観光地のフォトスポットで撮影された写真を見て、現地へ赴き天候や位置、時間帯などの条件の違いから、「写真と違う!」とがっかりした・・・という経験は、SNSの発達以前にも、旅行雑誌に掲載された風景写真との違いにおいても、よくあることでした。

また、家探し中に、賃貸住宅情報サイトで、露出が高め(明るめ)で、広角レンズで撮影された写真によって日当たりの良い広い家に見えていたのに、内見に行ってがっかりというのも、「写真の方がよかった」事例の中で多くの人が経験していることだと思います。このように、写真と実際がひっくり返ることはもはや普通だし、写真を撮るために人が移動し、写真があらゆる経験に先立つこともある昨今、見えるもので写真に撮れないものはそう多くありません。

そんな中で、私がどうしても実物の方が良い、写真じゃ撮れないな、と思うのがダンスです。これはジャンルにもよりますが、昨今のジャンル超越型のアイドルのダンスに顕著です。

もちろん、ダンスを撮るプロの写真家の人は、振り付けを事前に把握した上で、ここぞというところで連写することを繰り返していくのではないかと思うのですがそれもなかなかに難しいこと。写真の撮影・編集が超簡易化する現代においても、ダンスが手強い被写体であることは間違いありません。

その難しさを疑似的に体験できるのが、YouTubeなどでアイドルなどのダンス動画をキャプチャーしようとする時。アイドルのダンスプラクティス動画は、アイドルを推す人たちの中では特にみんなが大好きなコンテンツのひとつ。ですから、1つの動画が公開されれば少なくとも初見の後にもう2回は見るし、「このシーンがやばい」というのを友人とシェアしたい!という思いに駆られることが、多々!多々!あります。

しかし、その動画を見てバチバチに揃っている!と感じるときにも、それをスクリーンショット機能で「撮影」すると、実際にはわずかな腕の高さや身体の角度などが映像で見た時よりもズレているように見えてしまうので、ダンスを見た時のあの感動を写真で再現し、人に伝えることってなかなかできません。(だからか、SNSでダンスをシェアするときには、最近は短めの動画でシェアすることが一般的になっていると思いますし、TikTokは、1枚の写真ではどうしても伝えられない「動き」をテーマにしているSNSであるからこその独自性がありました。)

集団での踊りが「揃っている」ことを伝える難しさだけでなく、ダンスを撮ることには他のものを撮るのと異なるいくつかの困難があります。

例えば目の前で踊る一人のダンサーを撮影する時。撮影者の存在や位置に関わらず進むダンスに対して、その「キメ」となる一瞬を掴むとき、「今だ!」と思っているうちにその瞬間は過ぎ去ってしまうので、狙おうとしても狙えないのです。(だから、ダンス専門のカメラマンというのは、本当にすごい。)

他にこのような例があるか考えて見ても、例えば、スポーツ写真の場合は競技にもよりますが、その競技に精通している人であれば、メソッドにがあるはずでそれに則り狙って撮ることも可能でしょう。また、舞台や映画の場合は、もちろんその全体的な内容を写真が伝えているわけではありませんが、映像作品や舞台作品の1シーンを静止画として撮影する「スチル写真」によって、作品広報が行われていることを考えると、ここにはダンスとの大きな違いがあると思います。

私はダンスの専門家でも、プロの写真家でもありませんが、以前、仕事でダンスの写真を撮らなくてはいけない時があり、その時に、自分が「撮っている」というよりも「シャッターを押させられている」感覚があったのをとてもよく覚えています。撮影というのは多くの場合が能動的に行われる行為だと思いますが、ダンサーのリズムに同調し、身体の動きを追いかけながらの撮影では、撮影者は受動的な存在にならざるを得ません。

このように、受動的にしか撮影できないような被写体は他にも例がありますが、なかでもダンスという表現と写真という表現の掛け合わせは、その不可能さが際立つ例だと思います。というのも、現代のダンスの見せ場の多くが動的な展開(=動きと動きの間のギャップ)において起こるものであるという点で、そもそも写真には向いていません。もちろん、身体の角度とか、アクロバティックなポーズの凄さというのもダンスの魅力の一つですが、「止め」とか「抜き」というような差異で表現する動きが見せ場になっているダンスは、写真では表現することができないのです。超かっこいいのに。

さて、最近では、映画やドラマ、オンライン授業の動画を早送りで視聴することが主流になりつつあるらしく、映像は情報として処理される時代になっているようです。

ダンスはほとんどの場合、音楽と結びついているし、映画や授業と異なり情報として見るものではないことから、「早送り」で見る対象ではなさそうです。

また、写真は早送りできるものではないし、濃縮された一瞬であるからこそ長く見ることができるのが魅力のひとつです。また、撮影にかかった時間が1/100秒であれば、少なくともそれを人が見る場合には、その100倍は時間をかけて鑑賞されるでしょう。

いわば、ダンスを見ることと写真を見ることは、(双方の相性は悪いながらも)極めて感性的に「見る」経験であるという点において共通していて、そして、「早送りで見る」という経験で置き換えることができない、異なる「見る」の経験を提供しているのです(早送りで見る経験に置き換えることができない映像の方が良いのだ!というわけではありません)。

デジタル化され、極限までノーストレスで処理される「映像=情報」の中で、ダンスという表現と、写真という表現が出会ったところに生じる「ダンスの写真の撮れなさ」はストレスフルな映像体験としていまや貴重なものになりつつあります。

でも、もしかすると「写真に撮るより実物で見た方がいいもの」がある限り、広い意味での「写真」の進歩は続くのかもしれませんね。と言っても静止画に未来はあるのか・・・? ではまた!

プロフィール

村上由鶴

むらかみ・ゆづ  | 1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院博士後期課程在籍。専門は写真の美学。The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎Plus「現代アートは本当にわからないのか?」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。2022年本を出版予定。