カルチャー

スーパーアスリートとしての写真家ー「写真的運動神経」論

2022年2月28日

前回は、プロの写真家と一般の写真ユーザーの違いがあいまいな時代において、写真家は「映え」で勝負するのではなく、多くの人が選ぶであろう選択肢を「あえ」て捨てることで、自分なりに独自性を生み出しているという話をしました。

しかし、写真の歴史を見れば、写真家の誰もが「あえ」にチャレンジしているというわけではありません。というより、「あえ」ない写真のほうが長い歴史と分厚い層の蓄積があると言えます。「あえ」はいわば変化球なので、「あえ」がない写真は「ストレート写真」とも呼ばれますが、ストレート写真では、プロフェッショナルによる高度な「映え」の競い合いが行われていると言っていいでしょう。つまり、写真家と一般の写真ユーザーの違いはやっぱり曖昧なのです(振り出しに戻るようですが)。

近年、写真家のドキュメンタリー映画や番組が作られたり、YouTubeなどで撮影風景の記録映像を見ることができるようになっています。

特に見ていて面白いのは街を歩きながらパシャっと撮るタイプの写真家である森山大道や、そうして撮られた一枚一枚の写真を組み合わせる西野壮平などの撮影風景。なにかに気づいたように機敏にシャッターを押す様子や、街を動き回っているのを見ていると、それが一種の運動であり、多くの人とは異なる身体能力を持っていることがわかります。若手写真家のRyu Ikaさんは、生々しさとユーモアを備えた強いスナップ写真を撮りますが、そのIkaさんと一緒に代田橋の書店「flotsambooks」の近くで味噌ラーメンを食べたあと、駅まで歩く少しの間にIkaさんが目ざとくカメラを取り出してバシャっと撮ったのを見て、身体能力と遠慮のなさが、その写真の秘訣なのだと感じました。

ここまで名前を挙げた3名(森山大道・西野壮平・Ryu Ika)の写真家は、「あえ」と、身体能力が可能にした「映え」を高度に組み合わせるタイプの写真家ですが、彼らの作品からは、運動神経の良さがにじみ出ています。その運動神経の良さをよりはっきりと表現しているのが、ジャック=アンリ・ラルティーグアンリ・カルティエ=ブレッソンのような写真史上に輝く写真家たち。写真を撮るという運動神経につけては、彼らは金メダル級です。1秒前だと早すぎて、1秒後だと遅すぎるというような、パーフェクトな一瞬。最適な瞬間に最適な方向に向けて、最適な画角と露出でシャッターを切って撮影された「決定的瞬間」は、写真家の身体の動きや野性の勘のような個人の資質とやはり切り離すことができません。わたしは、特に撮影のときに現れるそうした写真家の能力を、「写真的運動神経」と呼んでいます。

「写真的運動神経」といっても、スポーツと同様、それぞれの表現に適した運動の能力があります。

例えば、都市でスナップや大自然で動物やランドスケープを撮る写真家は、カメラを通じて、その対象と触れ合います。その様子は、大自然や都市と向き合って、今か今かと技を繰り出すタイミングを狙っている柔道やレスリングなどの格闘競技のよう。「IPPON!」と言いたくなるような必殺のシャッターで相手を仕留めることもあれば、時間をかけながら腕力と体重で対戦相手を畳に抑え込むようにして被写体に向き合うこともあるし、小技をかけまくるように撮影し、写真の枚数で勝負するということもあるでしょう。フェンシングのように目にも止まらぬ速さで被写体の隙を突くなんてこともあるかもしれません。このように、写真というのは(基本的には)格闘技のように、撮影する相手や対象があって成り立つものであり、それぞれの写真家の写真的運動神経を生かした独自の戦い方があります。

一方で、対象と長く、親密な関係を築くことで、その写真家にしか撮れない光景を撮影するドキュメンタリー写真も、ストレート写真の一種です。

わたしの師匠である伊藤亜紗は、障害のある人の身体の研究をしている美学者ですが、著書『手の倫理』のなかで、ブラインドランナー(視覚障害者のランナー)と伴走の関係について、自身がアイマスクをして伴走者と共に走った経験を以下のように述べています。

「その時の感覚は、「大丈夫だ」と確信できたというよりは、「ええい、どうにでもなれ」とあきらめて飛び込む感じに近かったように思います。まさに不確実な要素があると自覚しながらも、ひどい目に合わないだろうと「信頼」した瞬間でした。(中略)いったん信頼が生まれてしまえば、そのあとの「走る」の、なんと心地よかったことか。最初はウォーキングでしたが、すぐにおのずとスピードがあがって走り始め、最後は階段をのぼることまでできるようになりました。ずっと走っていたい!それは、人を一〇〇パーセント信頼してしまったあとの何とも言えない開放感と、味わったことのない不思議な幸福感に満ちた時間でした*」。

この伴走者とブラインドランナーの関係は、長く一つのテーマや被写体に向き合う写真家の制作プロセスに似ていると思います。写真家と被写体の、どちらがランナーでどちらが伴走者なのか、そして、「幸福感」にまで到達するかどうかはケースバイケースですが、説得力のあるドキュメンタリー写真は、奇跡のような呼吸の交換が生まれて、お互いが相互に自分を委ねて走った結果なのかもしれない、と感じさせます(それが人でなくとも)。信頼があるからこそ遠くまで届くし、走り抜けることができる。どちらかがどちらかを介助することが固定しているのではなく、信頼によって両者が持つ異なる世界を折り合わせるところに、誰も見たことのなかったヴィジョンを立ち上げることができる、そんな関係があるのではないでしょうか。

このように、誰でも写真が撮れる現代において、「あえ」る写真家たちがデスクトップや、頭の中で写真を組み立てるのに対して、「あえ」なしのストレートの写真家たちはスーパーアスリートとして対象に向けて写真的運動神経をフル稼働させます。

ただし、写真の世界では、畳やリングの場外で技をかけたり、ブラインドランナーを混乱させ不安にさせる伴走者のように、乱暴な写真の使い方がたびたび問題になります。優れた写真的運動神経を持つ人には、自分の持つパワーに自覚的であることも必要です。

*伊藤亜紗『手の倫理』講談社、2020年、pp. 154-155

プロフィール

村上由鶴

むらかみ・ゆづ  | 1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院博士後期課程在籍。専門は写真の美学。The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎Plus「現代アートは本当にわからないのか?」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。2022年本を出版予定。

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