カルチャー

ハッキングされているのは写真でありわたしであるー純粋に写真を見れると思うなよ

文・村上由鶴

2022年4月30日

写真について語られるとき「コンテクスト」というのはよく出てくる言葉です。日本語でいうならば、文脈とか背景といった意味を持ちます。写真を見るという経験は常に、その写真がどんな場所でどのように見せられているかということ=コンテクストに大きな影響を受けます。写っているものは同じなのに、全く違う意味を持つ、というのは写真の基本なのです。一口に写真といっても新聞やテレビ、博物館、美術館・ギャラリー、そしてインスタグラムとハッシュタグなど、写真にまとわりつくコンテクストのパワーは強大です。

昨今、そのパワーが最も強く現れ、全世界の情動を刺激しまくっているのが#StandwithUkraine というハッシュタグと共に各種SNSに投稿されている戦争の映像です。Twitter、Instagram、TikTok…世界中に顧客を持つSNSでは、すべてのメディアに先行する戦場の実態や、テレビでは放送を控えられるような惨状が発信されています。

ロシア・プーチン大統領によるウクライナ侵略がはじまってからと言うもの、#StandwithUkraineは、日本を含むNATO側の人々を中心とした「正義の側」の標語として機能してきました。ですから、このハッシュタグと共に戦場の写真が投稿されていたときには「これは日本を含むNATO側の価値観だから共感・応援できるし、撮影されるべき映像である」と思わせる効果があります。たとえそれが、どんなに残虐な写真であっても、です。

一方で、#DenazifyUkraine(「ウクライナを非ナチ化する」)というロシアの言い分を肯定するハッシュタグの場合は、全く同じ写真であっても「こんな写真を撮るなんて人道に反する!」と思ってしまうというようなことが起こります。わたしももちろん、#StandwithUkraineの気持ちではあるので、プーチンの蛮行はそもそも人道に反しまくっている打倒すべきものとは思ってはいるのですが、写真の「置き場所」や「置かれ方」についつい煽られ左右される義心や義憤には、自覚的でありたいと思います。

ところで最近では、SNSやウェブ広告、ブログ等で展開される写真を用いた「ステマ」広告に注意・警戒するということにも社会全体が慣れて来ているようで、素朴に信じた人の「自己責任」が問われる時代になりました。

その中で、素朴に信じることが許される「写真」として発信されているものとして新聞・テレビなどの報道において使用される写真があります。しかし、その写真にさえもそのメディアの「意思」が巧妙に張り巡らされている。たとえば、時の政治家の顔写真を撮るときに、最も意地汚く笑っているような写真を新聞の1面に据えることで、その政治家に対する市民の意識を誘導することもできるわけで「素朴に信じらがち」なメディアこそ、やはりいまだに市民に対する強い影響力を持つのです。災害時の流言(今ではTwitter)にも同じようなことが言えるかもしれませんが、だからこそ時々(いまだに)、報道番組の偏りや、ヤラセ、外国人の発言に虚偽の字幕を加えるなどの問題行為は取り締まりの対象となっているのです。

同様に疑いの対象にない写真というと、博物館で展示される写真があげられます。例えば、博物館のひとつである動物園や水族館で、檻や水槽の前に動物の名前とともに、その動物の写真が貼ってあるということはよくありますが、ここで写真は、檻のなかで草木や岩場の陰などに隠れてしまっているかもしれない動物を見つけるヒントにもなるし、当該の動物を檻の外から観察できないときには、その写真自体が見るべき対象となることもある。クジャクの檻の前で「クジャクが写真の通りにならないね」とか言ったりするわけで、いわばここで、写真は剥製として機能するのです。

さて、この「写真は剥製」というやや突飛な理論ですが、博物館(ミュージアム)や美術館(アート・ミュージアム)で写真を見るときには少し頭の片隅においておくべきことだと思います。

というのも、ヨーロッパを中心とする列強諸国が世界各地で植民地を拡大した時代、かつて西洋(や西洋の価値観に必死で食らいついた日本)の博物館という場所は、植民地から実際に人々を連行してきて人間を実物展示したという負の歴史を持ちます。

その展示は、構造として植民地となった国に住む人々や少数派の民族を、近代化した国家に住む人よりも劣った人種であるとする考え方を強化しました。彼らの暮らしや人種的・外見的特徴をあげつらって見せることで、展示を「見る」側を優位に、「見られる」側を劣位に置き、今となっては完全に否定されるべき人種的優劣の観念を広めたのです。

ここで、「写真は剥製である」というちょっと乱暴な理論に戻れば、博物館の派生型である美術館やギャラリーにおける写真の展示においても、人間の写真を撮って見せる場合には、「ミュージアム」がまとう負のコンテクストに対してどのように配慮しているかという検討は必須だと思います。

その上で、美術館やギャラリーはさらに独自の制度や考え方が強固な場所となっています。「ホワイトキューブ」と呼ばれる白く壁でできた四角い空間は、「場所」のパワーや影響をなるべく漂白するというこれまた別のパワーがあり、これには作品に集中して鑑賞できるという良い面と、何もかもを「美術」っぽく見せることができるという悪い面があります(そういった空間に抗うように、最近の「地域アート」では、町の名所とか、古い民家で作品を見せるという傾向があります)。

美術館において「作品」として写真を見るという経験は、実は、他のメディア等での写真の鑑賞体験と異なり、写真に「写っているもの」を直に情報として受け取るのではなく、写真が「写真であること」が立ち上がる経験ともいえるのです。

「写真って何なんだっけ?どういう芸術?」「なんで絵じゃなくて、彫刻でもなくて写真にしたんだろう?」「撮っただけじゃね?」・・・

「極彩色だなー」、「有名人のやたらどでかい写真だなー」、「東京の郊外を撮っただけに見えるのに何がすごいんだろう」・・・

というように、カメラの効果や編集、そして内容、その内容をなぜ、その撮影者は(作者は選んだのか?)ということが際立ってくるというわけです。

と思うと、「純粋に写真を見る」なんてことは、ほとんど幻想か、実はかなり超人的な能力であるということに気づきます。どんなに静的に見える写真であっても、ハッシュタグや新聞などといった写真のコンテクストにハッキングされる意識(への意識)と、写真をハッキングするメディアや場所が負うコンテクストの濁流の中でダイナミックに動いている。独立自尊で写真を見れると思ったら、大間違いなのです。

プロフィール

村上由鶴

むらかみ・ゆづ  | 1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院博士後期課程在籍。専門は写真の美学。The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎Plus「現代アートは本当にわからないのか?」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。2022年本を出版予定。

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