カルチャー

写真をめぐる「・・・で?」の壁と「写真賞」

文・村上由鶴

2022年3月31日

つい先日、第46回「木村伊兵衛写真賞」が発表され、吉田志穂さんが受賞されました。「あなたはなぜ山に登るのか?」と問われた登山家のジョージ・マロリーの名ぜりふ「そこに山があったから(ドヤ顔)」は、一般によく知られていますが、吉田さんの作品は、いわば写真で山を示しながら「そこに山はあるのか?」と問うようなおもしろさがあります。のぼり始めると「表向き」の姿が見えなくなる山という存在と、際限なく複製され蓄積されて「山」を作る写真の親和性を感じる「ランドスケープの写真についての写真作品」だと感じます。

さて、吉田さんが受賞した「木村伊兵衛賞」とは、その年に写真の創作・発表活動において優れた成果をあげた写真家を、写真業界の写真玄人たちがノミネートし、それをスーパー写真玄人たちが審査して決まる「写真界の芥川賞」です。

他方、最近、写真表現の業界ではもうひとつのニュースがありました。それは、リクルート主催の「1_WALL」写真グランプリ終了のお知らせ。国内で「写真家」としてデビューするための最初の一歩として、若手向けの写真コンペとしては、「写真新世紀」と「1_WALL」グランプリがその代表的な2大コンペだったのですが、なんとここ1年の間にどちらも終了が発表されたのです(「1_WALL」は別のかたちのコンペになる模様)。寂しいですね。

「写真新世紀」や「1_WALL」のような若手向けのコンペは、「写真家」と名乗るか名乗らないかのところで「写真家」になる人の背中を押し、そしてその受賞歴が、ギャラリーや出版社にとっては、ある人間を写真家として扱うことの後ろ盾として機能してきました。この若手向けコンペの受賞者が後に伊兵衛賞を受賞するというのはひとつの定番パターンでした。

…というと、写真の世界って「賞」が「賞」を連鎖的に産むようなちょっと権威的で閉鎖的な仕組みにも聞こえますよね。お仲間同士のずぶずぶ出来レースなのかも…?と疑いだすと疑心暗鬼が止まらなくなっちゃったりして。

では、そもそも、こういうコンペやアワードってなんのためにあるのでしょう。うがった見方をすれば、写真集を売るため、ギャラリーで作品を売るため、写真家の知名度を高めるため、スポンサー企業のプレゼンスを高めるため…と、まあざっとこれくらいのことが思いつきます(けど、さすがにわたしが斜に構えすぎている気がします…)。

写真のギョーカイにおけるコンペやアワードはこのように、もちろん「関係者の皆様」の実利のためでももちろんあるのですが、しかし、一方で強調したいのが、鑑賞者を導くものとして、わたしを含め多くの人の写真を見ることへの入り口を作ってきたという面です。

というのも、写真作品の良し悪しについての判断は言語外の超個人的な「なんかいいよね〜」に頼っている部分がとても大きい。たとえば、美術館で見る高名な写真家の作品であっても、日常性の高すぎる身の回りのものを写した写真だと「・・・で?」ってなっちゃって、なんっにも感じられないことってちょこちょこあります。ってゆうか、ちょこちょこどころか「・・・で?」系の写真って多すぎる。

そんなとき、使ったカメラや画質という技術の部分に着目することで、なにか理解できるような気になることもありますが、まさにそれって「表面的」。「じゃあ写真を見るってなにを見ればいいわけ!?」 

と、そんな戸惑いに応えてくれるもののひとつとして、コンペやアワードはあります。

写真作品が人を「・・・で?」ってさせてしまうのは、写真が原理的にわたしたちが実際に見ている世界を「コピー」しているほとんど完全な類似物である、という原則に由来しています。

例えば、わたしの目の前にあるテーブルは写真に撮ってもほとんど見た目が変わらずただのテーブルですが、絵画であればそのテーブルを再現するために、油彩なのか、鉛筆で書かれたドローイングなのか、あるいはキュビズムっぽいのかスーパーリアリズムっぽいのか…など、画材や描かれ方に「わかりやすい」違いが出ます。その絵画の良し悪しの判断ができなくても、これを描くのは大変だっただろうな、とか、よく似てるな、とか、見たことがないタイプだ、などと見るべきポイントが明確な絵画に比べれば、写真ってそういうことがわかりにくい。具体的で見知ったものが写っているのに、いや、だからこそ、それが何を表現したいのか、この表現のどこが重要なのかわからない…というように、写真はたびたび「・・・で?」の壁をドーンと立ち上がらせ、鑑賞者をその壁のまえでうろうろさせてしまうのです。

そのなかでコンペやアワードは、いわばその「・・・で?」の壁をよじのぼるためのハシゴや杭となってきたと言えます。

無数にいる写真家のなかで、いま見るべき写真家は誰なのか、写真家がなにをしたのか、その写真家のどこがすごいのか…写真を見る人の不安を取り除き、写真家と鑑賞者の縁を取り持つのが賞のやさしい一面です。

作品の見るべきポイントや重要性、歴史的な位置づけなどを記した選評、グランプリとファイナリストの作品の比較、そして「選者が誰なのか?」ということも含めてコンペやアワードを見ることは、「いいな〜」(とメカに関すること)以外の感想で写真を見るための一助となるはずです。

とはいえ、賞は「絶対的に優れた作品」を決めるわけではなく、一握りの写真玄人が彼らの培ってきた経験を通して写真作品をまなざし、言語外の(超個人的な)感覚を集合知的にすり合わせて、「暫定的な優」を決めているだけに過ぎません。

鑑賞者ひとりひとりの「好き」という気持ちや推しの写真家が否定されるわけでもありません。お客さんが多いジャンルでは「賞」それ自体への批判が集まることもしばしば(アカデミー賞など)で、本当はそういう状態のほうが健全です。

ですが、いまだに一見さんお断り的な態度で「写真を言語的に説明することの野暮さ」を忌避しがちな写真ギョーカイにおいては、コンペやアワードは、いまだに鑑賞の手がかりとして有益です。ひとまず伊兵衛賞作家から見始めることで、日本の写真の流れや変化を感じることもできるでしょう。

いくつかのコンペの終わりには、新規参入の鑑賞者や写真家を目指す人へのヒントや足がかりが少なくなってしまうのかも?という懸念があります。わたしとしては、野暮ったい言葉で写真について話すことで、「・・・で?」の壁を超えることの役に少しでも立てばと思います。

プロフィール

村上由鶴

むらかみ・ゆづ  | 1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院博士後期課程在籍。専門は写真の美学。The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎Plus「現代アートは本当にわからないのか?」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。2022年本を出版予定。