複製技術時代の交換日記

複製技術時代の交換日記 Vol.2

2026年9月4日

ゆづ

かすみちゃんへ

お返事が遅くなりごめんなさい(毎度言わないように今後気をつけます)。

この夏、首都圏は、写真や映像の展覧会が充実していますね。

渋谷ヒカリエで開催中の「まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険」とか、東京都写真美術館の出光真子の個展、東京国立近代美術館の杉本博司の個展や、ギャラリーで開催中のものも含めると他にもいろいろあります。

「まなざしの奇跡」は、広く日本の女性写真家の活動・作品を紹介する展覧会ですが、とにかくおおぜいの女性写真家が参加していて見応えがありました。今回の展覧会に参加していない人の作品もちらほら頭に浮かびましたが、それでもかなり網羅的だし、なにより多様な感じがするのがいいですね。「日本の女性写真家ってこうだよね」となにかステレオタイプ的なことを言われることはたぶんないだろう、と思いました。

「日本の現代美術は」と言われたらきっと国際的にはなんらかの固定化したイメージがあると思うんだけど、そういう印象を残すことがなさそう。そして、やっぱりこういう展覧会をできたことがまず喜ばしい、業界の先輩たちすごい、という気持ちになりました。

あと、日本には日本の写真史があり、そのなかで、ジェンダーが大きなテーマになっているというのも感じました。

どうしたって「日本の写真」というと、ダイドー(森山大道)、アラキ(荒木経惟)、みたいな感じだったろうし、わたしもそれをどこかで内面化しているというか、男性中心の歴史をまず想定して、その枝葉のように女性の写真家の作品を位置付けてしまうときがあるけれども、日本の写真史は女性の写真家たちが折々でめちゃくちゃたくましく作品をのこしてくれてきたからこそ、パラダイムシフトが起こって、歴史が停滞せずに駆動されてきたのかもと思いました。このあたりは写真史研究のかすみちゃんのほうが詳しいかも(視点があるかも?)と思います。

個人的には、渡辺眸の「東大全共闘」のシリーズがなんだか心に残っています。なんだか、ポソっとした写真だな、と思いました。あの現場にいないと撮影できない写真であるという点では切迫した状況なのに、どこか終わりの予感というか冷めた感じがしておもしろかった。これは、もしかして去年読んだ桐野夏生の小説『夜の谷を行く』(連合赤軍事件に関わって逮捕され、出所してから人目を忍んで暮らす女性の話)の影響もあるかもしれません。

ところで、出光真子の個展「おんなのさくひん」は終始居心地が悪かったです。いい意味で。もちろんどの作品もおもしろいし、大好きなんだけど、女として生まれたことの絶望を改めて味わうことが何度もありました。そのなかでちょっと気になったのは、「グレート・マザー三部作」や《英雄ちゃん、ママよ》などの母の愛情の暴走がテーマになっている作品たちです。

「グレート・マザー三部作」は、《グレート・マザー 晴美》、《グレート・マザー ゆみこ》、《グレート・マザー 幸子》からなっているものですが、それぞれ違った母親と娘との関係、そしてそれがまねく生活の不協和(登校拒否とか、ゆきずりの人と結婚しちゃうとか、夫がアルコール依存になる、とか)が描かれています。

最近の縦型のドラマの切り抜き動画とかにも出てきそうなすれちがいや狂気の描写が印象的でした。もちろん出光真子が先んじてるし(出光の作品はもちろんもっと複雑)、きっと当時の社会に現実に似たようなことがあったんだろうとも思う。一貫して、母親が諸悪の根源として設定されているようにも思いました。

図録によれば、アメリカで子育てをして、帰国してから日本の母親たちの子どもの自立を阻むような子育てに疑問を抱いたということなんだそうだけど、暴走する母性をテーマにするのは、いわゆるフェミニズムのアーティストとはちょっと違う視点だな、と思います。でもこの、エンパワーするだけではないというか、どこか釘を刺してくるというか、母親をおぞましさのバリエーションをしつこくいくつも示してくる感じは一筋縄じゃない感じがして、むしろいいなと思いました。

フェミニズム的な作品の読み方を体得すると、フェミニズム的な志向を持つアーティストの作品を、その方向でしか読めなくなるような気もしていて、それはそれで見方が狭まっているのではないか、という気もしなくもありません(とはいえ、アートの見方がわからん!という人には、フェミニズムはよいツールになるとは思っています)。

フェミニズムの流れの中では「シスターフッド(女性同士の連帯)」ということがよく言われるけど、「マザーフッド」は単に「母親であること」を示す言葉だよな、とか思ったりもして。だからなんだって感じではあるんですが。どのように消化すればいいか、わたしのなかではまだ整理がついていません。

ゆづより。

かすみ

ゆづちゃんへ

「まなざしの奇跡」展、私も観ました。オープニング・パーティーに招待してもらったのですが、出展作家の皆さんが一堂に会している姿は圧巻でした。作家の方たちだけでなく、これまで日本の女性写真家の仕事を陰で支えてきた人たちもみんなが集まっている空間でした。

この展覧会は、2024年にニューヨークの写真専門出版社Apertureから刊行された書籍『I’m So Happy You Are Here Japanese Women Photographers from the 1950 to Now』が元になっていて、最初の展覧会は2024年7月にフランスにてアルル国際写真フェスティバルの一環として開かれています。その後、ヨーロッパ各地を巡回しているのですが、実は私は2025年の冬にオランダのデン・ハーグ美術館でも展示を鑑賞しています。

オランダで展覧会を訪れて印象的だったのは、ハーグ市民と思われる多くの人たちの、展覧会への関心の高さでした。時間をかけてじっくり作品をながめて、解説を読み込んで、お互いに作品の感想を語り合っていて、オランダの美術鑑賞教育の水準の高さに驚きました。日本で生まれ育って、写真史を専門に研究する私としては、異国の地で日本女性写真家の作品が、熱心に鑑賞されている光景に立ち会うことができたのはとても感動的でした。

そのころは、日本への巡回はまだ決まっていなかったので、日本にも来てほしいし、カタログが出てほしいと願っていたので、実現して本当によかったです。それと同時に、この企画が国内ではなく、海外で立ち上がり、日本に逆輸入のような形で巡回したという事実については、その理由を批判的に考えていく必要があるのだろうなと思っています。

出光真子の個展も楽しみました。ゆづちゃんは、いい意味で終始居心地が悪かったと書いていたけれど、私は共感の気持ちが溢れました。出光真子による毒をもって現実の毒を制するような体験といえばいいのかも。例えば、一般的には美しいものと考えられている母性を、時におぞましいものだと冷めた目でみる感性は私だけのものではなかったという安心感もあるかもしれません。

日常生活で、ジェンダー規範に固着している人を見かけて滑稽だなぁと感じてしまうとき、出光さんに作品にしてほしいと願ったりしています。「グレート・マザー三部作」や、《加恵、女の子でしょ!》において描かれる悲劇は、現代社会でも繰り返されている物語だと思うので。なかでも《英雄ちゃん、ママよ》は、録画されたビデオのビデオという入れ子構造が、依存先を求めて暴走する母性の空虚なホラーとリンクしていて、映像作品として秀逸だと思いました。

出光真子作品は時代を先んじているなと感じたのは、1972年作の《At Santa Monica 1》です。顔の整形手術を受けた友人から電話を受けて、すぐさま撮影に向かったというこの作品は、術後目元が赤黒くぱんぱんに腫れあがった女性が、鏡に映った自分の顔を見つめる姿がおさめられています。今でこそ、ダウンタイムという用語が一般化して、手術直後の顔をネットなどで見る機会も増えたけれど、つい十数年前まで、整形自体にタブー意識が強かったし、整形したとしても本人はそのことを隠し通したいのが常識であったと記憶しています。

最近読んだ石田夏穂の短編小説「小人二十面相」には、自分の顔が嫌いで、写真に写るなら死んだほうがましと嘆く小学生がでてきました。彼女は卒業旅行にディズニーランドへ行く約束を友達とするのだけれど、ディズニーランドではたくさん写真を撮るだろうからという理由で、内心はとても憂鬱です。

小学生の彼女には整形という物理的手段は選択肢にありません。そこで彼女が考え出した蘇生術は、自分にとって美しいと思える姿を見せてくれる鏡を選りすぐって、それらだけを視界に入れることでした。試行錯誤の末の、現代版ナルキッソス小学生、爆誕。マクドナルドの鏡は明るすぎてだめ、車の窓の反射は下膨れてブス、スマホの画面の反射は黒で顔が引き締まるから容姿端麗、公園の野外トイレは暗めの照明でなかなかの美人に見える、とかを繰り返すうち、自己の容姿に対する肯定感をコントロールすることに成功します。

私たちは、他人の姿を見ることはできても、自分の姿を、自分の目で直接見ることはできません。鏡とか写真とか反射とか、何かしらの媒介なしには、自分の姿を確認することはできないのです。だったら、物理的な顔や身体に手を加えるのではなく、見たい自分を見せてくれる媒介を選ぶというその発想はとてもラディカルだと思いました。

前回、大泣き写真全消し事件について書いたけど、そのときの私は「写真」イコール「現実」だと信じていたのだと思います。減量とかヘアメイクとか現実の身体を変えることしか頭にありませんでした。もう少し柔軟かつ冷静に、ライティングとか、画角とか、カメラの種類とか、媒介物の影響を見抜くことができて、その結果、「写真」=別にそこまで現実でもないし、現実っぽくみえたとしても、そもそも真の「現実」とは存在しえないのかも、と考えられていたら、私のアメリカ留学ガリ勉期の写真たちは生き残っていたのかもしれません。

かすみより。

プロフィール

複製技術時代の交換日記 Vol.2

村上由鶴

むらかみ・ゆづ|1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻助教。専門は写真の美学。光文社新書『アートとフェミニズムは誰のもの?』(2023年8月)、The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。


複製技術時代の交換日記 Vol.2

久後香純

くご・かすみ|1991年、京都府出身。Ph.D in Art History. ニューヨーク州立ビンガムトン大学美術史学科で博士号取得。専門は写真史/論。博士論文のテーマは1960−70年代日本の写真出版文化について。現在、京都大学人間・環境学研究科にてポスドク研究員(日本学術振興会特別研究員PD)。