カルチャー

映画の”食”について考える。Vol.1/堀潤之

『ラルジャン』(ロベール・ブレッソン)

2026年10月9日

illustration: Shigokun
text: Junji Hori
edit: Keisuke Kagiwada

 毎月ひとつのテーマを掲げ、さまざまな執筆者にそれにまつわる映画エッセイを寄稿してもらう「映画の〇〇について考える。」。今月のテーマは、いよいよ秋が始まったということで、”食”。初回は映画研究者の堀潤之さんが、ロベール・ブレッソン監督の遺作『ラルジャン』について書いてくれた。

『ラルジャン』/堀潤之

 ブレッソンの映画には美食の快楽は不在である。上流社会を舞台にした『ブローニュの森の貴婦人たち』(45)ですら、会食の場面はたった一つしかなく、そこでも主人公たちは慎ましくスープを口に運ぶばかりだ。彼の映画における「食」の基調をなすのは、病魔に冒されて肉と野菜を断ち、ワインに浸したパンしか身体が受け付けない『田舎司祭の日記』(51)の若い司祭であり、捕虜収容所の居室にて新入りの少年とともに金属製のボウルで粗末な食事をとる『抵抗』(56)の主人公にほかならない。ブレッソン映画全般の峻厳なイメージにふさわしく、彼の映画における「食」はまことに禁欲的なのである。

 それだけにかえって、彼の映画の主人公たちが例外的に食べ物を口にする局面が目を引くことも少なくない。たとえば、『バルタザールどこへ行く』(66)の終盤で、吝嗇な穀物商の家で雨宿りをするマリー(アンヌ・ヴィアゼムスキー)が、猛然とジャムを頬張りリンゴをかじるときの、不意に噴出する食欲の生々しさはどうだろう。あるいは、病気の母を亡くした朝、『少女ムシェット』(67)の主人公が食料品店のおかみに招き入れられ、ちょっとした食事を恵んでもらうシーンも印象的だ。少女はクロワッサンを珈琲に浸してかじり、彼女の境遇を哀れに思ったおかみはクロワッサンをさらにもう一つ彼女のポケットにねじ込む。しかし、おかみがムシェットの胸元についた傷をふしだらさの動かぬ証拠として咎めると、少女はその追加のクロワッサンを後ろ手に放り投げて見事に篭の中に返し、憤然として立ち去っていくのだ。ここでは食べ物のやり取りを介して、二人の感情の目まぐるしい変転が巧みに演出されているわけである。

 ブレッソン映画の頂点にある遺作『ラルジャン』(83)は、「食」の要素が比較的多く出てくる作品でもある。摑まされた偽札をイヴォンがそれと知らずに使ってしまうのも、カフェでの食事の後だった(彼が食べ散らかした皿も映る)。刑務所内の食堂のシーンも忘れがたい。お前の妻は寝取られているに違いないと周囲にからかわれて激昂したイヴォンが思わず手に取った巨大な穴杓子が、看守たちに取り押さえられた後、けたたましい音を立てて床を滑っていくところが何と言っても衝撃的だが、このシーンで提示される夥しい量の食事はブレッソンの全作品で最も〝豪奢な〟ものと言えるかもしれない。

 さらに、「食」にまつわる要素は映画の末尾付近でよりいっそう前景化する。純粋な善意を体現する初老の女性は、明らかにいかがわしいイヴォンを無条件で自宅に受け入れ、夕食のスープを与え、翌朝、飲んだくれのピアノ教師である父親の反対にもかかわらず、ボウルに注いだ珈琲をイヴォンが寝ている納屋まで運ぶ。その返礼であるかのように、その後イヴォンも、ハシバミの実を摘んで、洗濯物を干している最中の女性とそれを分かち合う。トルストイの原作にはない、こうした食物を介した交流が差し挟まれるからこそ、それに続くイヴォンによる一家惨殺の不条理なまでの残酷さが際立つのだ。およそ観客の味蕾を刺戟することのないブレッソンにあっても、食料のやり取りは決定的な重要性を帯びている。

プロフィール

堀潤之

ほり・じゅんじ|映画研究・表象文化論。関西大学文学部教授。著訳書に『映画論の冒険者たち』『ゴダール・映像・歴史』(いずれも共編)、ニコル・ブルネーズ『ジャン=リュック・ゴダール 思考するイメージ、行動するイメージ』、アンドレ・バザン『オーソン・ウェルズ』、ジャック・ランシエール『映画の隔たり』『イメージの運命』、コリン・マッケイブ『ゴダール伝』など。

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作品のあらすじ

『ラルジャン』

ロベール・ブレッソン監督

原作はロシアの文豪トルストイの中編小説「にせ利札」。偶然手にしてしまった偽札を、知らずに使ってしまった燃料配達人イヴォンの悲劇的な末路が描かれる。『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』などで知られるフランスの鬼才ロベール・ブレッソン監督の遺作。