カルチャー

「自由という名の街」のはなし。/第5話:太田光海

2026年9月9日

「自由という名の街」のはなし。


photo: Naoto Date
text & edit: Kosuke Ide
cooperation: Miu Nakamura

何だかとらえどころがない、でもここにしかない何かがある。
POPEYE Webが愛する街、東京・自由が丘を語るインタビュー連載!

小学生の頃、サッカーに夢中だった太田光海さんが壁にボールを当てて一人、練習していた「世田谷区立奥沢二丁目公園」の前の九品仏川緑道で。

こんなところで満足するなよ、もっと広い世界を見ろよ。

 父が科学者で、東工大(現・東京科学大学)に赴任することになり、1998年から2008年まで、僕が小学校3年から高校3年生までの10年間、自由が丘に近い目黒区緑が丘に住んでいました。引っ越す前の小学校の1、2年は静岡県の三島に住んでいたんです。当時の三島は田んぼばかりの田舎の風景で、遠くには富士山が見えて。川へ下りて木で隠れ家を作って遊ぶとかそんな生活だったので、緑が丘に引っ越したときはギャップを感じましたね。

 転校した「緑ヶ丘小学校」の校舎は打ちっぱなしの建築で、教室の仕切りのドアがなかったり、ピロティやビオトープがあったりで、90年代当時としてはすごく先進的でした。登校初日、僕はジャージを着ていったんですよ。すると、隣の席の女の子が僕を見るなり「何、その汚い格好」と言って、「先生、太田くんがジャージ着て来てます!」と言いつけに行ったんです。ショックでしたね。僕はサッカー小僧でしたし、静岡では農家の子も多かったから、ジャージで登校は普通のことだったんで。

 いきなり洗礼を浴びたので驚きましたが、とはいえ学校に馴染んでみると、意外と色々な家庭の子がいました。夏休みに家族でパリ旅行に行ったり中学からスイスのボーディングスクールに通うなんていう子もいれば、当時この辺りにもまだまだあった木造のアパートに住んでいる子や、お父さんは大工という子もいて。決してお金持ちだけが住んでいるようなエリアではないんですね。そもそも親の経済力なんて子供にとっては別に大きな意味はなくて、「あいつん家に行ったらゲームもいっぱいあるし、ケーキも出てくるよね」くらいの感じで受け入れてましたね。戦前に自由が丘の街を作った一人でもある舞踊家・石井漠の孫の石井武さんも同級生でした。

 一方で、このエリア独特の“地元感”もあって。何世代もここに住んでいるような人たちは肩の力も抜けていて、競争意識もない。僕が所属していた「自由が丘サッカークラブ」のモットーは、「自由なサッカー」でした。絶対に勝つことばかりを目的にするのでなく、自由に楽しむことが大切なんだ、と。トップを目指すよりも、自分が価値を感じるものを選ぶ。そのマインドはこの街を表していると思います。ただ、後に僕はそうした意識を克服しなければいけない場面もあったのですが。

 自由が丘には小さな個人経営の店が多くて、かわいいものとかセンスがいいものがたくさんある洗練された街、というイメージがありますよね。僕は高校から地元を離れて青山の高校に通っていたのですが、そこでは西東京とか足立区とか、色々なところから通っている同級生がいて、僕が自由が丘出身だと言うと、「お前、お坊ちゃんじゃん!」みたいに冷やかされた。地域のステオレオタイプ的イメージでからかわれたわけですが、一般的に十代の男子集団ではワイルドでタフなエリアで育った奴の方が偉くて、僕は「甘い環境でぬくぬく生きてきたやつ」みたいな扱われ方で(笑)。そこで初めて、自分の生きてきた街を外から見る視線に気づいたんですよね。軽音部に入って、渋谷のライブハウスやクラブなんかに出入りするようになると、自由が丘にはないようなアンダーグラウンドな世界があることも知って、惹かれていきました。

 小綺麗で、洗練されていて、無菌的。実際、自由が丘には「ここに住めるんだったら、他に出ていく必要ある?」というような雰囲気もあって、そういう意識の住人も多いと思うんです。でも思春期の僕はハングリーだったので、「こんなところで満足するなよ、もっと広い世界を見ろよ」という反感のような気持ちが芽生えてきて、大学はあえて関西に行きました。卒業後は10年間くらい海外へ。やっぱり「外へいきたい、ここではないどこかを体験したい」という気持ちが常にあったんですね。その結果、人類学者としてアマゾンまで行ってしまったというわけです。

 ただ同時に、やはりスタイリッシュなものとか、知的に洗練されているものに対する親しみも自分の中にあって。自由が丘って何となく街全体にヨーロピアン趣味がありますよね。「マリ・クレール通り」とか。僕がパリに留学したのはもちろん色々理由はありますけど、どこか根底にはそうしたものに小さな頃から触れていて、憧れがあったような気がします。また研究のために暮らしたアマゾンで、ナチュラルフードやエコカルチャーに触れたときも、「あれ、そういえばこれって自由が丘にあったじゃん」と後から気づいたり。オーガニックコットンのタオルとか、化学調味料を使っていないレストランとか……子どもの頃はそういうものにまったく興味はなかったんですけど、どこかにそうしたものを「良い」と考える価値観みたいなものが、自然に自分の中にインストールされていたのかなと。そんな風に、色々な意味で今の自分に間違いなく影響を与えているし、この街の文化に自分は育てられたんだという気がしています。

プロフィール

太田光海

おおた・あきみ|1989年、東京都生まれ。映像作家・文化人類学者。神戸大学国際文化学部、パリ社会科学高等研究院(EHESS)人類学修士課程を経て、マンチェスター大学グラナダ映像人類学センターにて博士号を取得した。パリ時代はモロッコやパリ郊外で人類学的調査を行いながら、共同通信パリ支局でカメラマン兼記者として活動した。この時期、映画の聖地シネマテーク・フランセーズに通いつめ、シャワーのように映像を浴びる。マンチェスター大学では文化人類学とドキュメンタリー映画を掛け合わせた先端手法を学び、アマゾン熱帯雨林での1年間の調査と滞在撮影を経て、初監督作品となる『カナルタ 螺旋状の夢』を発表。

Instagram
https://www.instagram.com/akimiota/

今回の撮影場所

世田谷区立奥沢二丁目公園

自由が丘駅南口から九品仏川緑道を緑が丘方面に歩いて5分ほど、住宅街の中に佇む公園。すぐ近くの「自由が丘スイーツフォレスト」(2024年閉業)跡地に2026年10月、「mimimi JIYUGAOKA」がオープン予定。