カルチャー

映画の”食”について考える。Vol.2/三浦哲哉

『淑女は何を忘れたか』(小津安二郎)

2026年10月16日

illustration: Shigokun
text: Tetsuya Miura
edit: Keisuke Kagiwada

 毎月ひとつのテーマを掲げ、さまざまな執筆者にそれにまつわる映画エッセイを寄稿してもらう「映画の〇〇について考える。」。今月のテーマは、いよいよ秋が始まったということで、”食”。今回は映画研究者の三浦哲哉さんが、小津安二郎監督の『淑女は何を忘れたか』について書いてくれた。

『淑女は何を忘れたか』/三浦哲哉

 小津映画では登場人物たちがひっきりなしに何かを飲んだり食べたりしている。たばこもよく吸う。

 飲食の光景が用いられるのは、「日々の暮らしが淡々と静かに過ぎゆく」のを描くためである、などとよく言われる。だが本当にそれだけだろうか。小津にとって飲食や喫煙は、まずもってそれ自体魅惑的なアクションであり、食卓やバーのカウンターはそれを生起させるための小さな舞台だったのではないか。

 『淑女は何を忘れたか』(1937)を見返してみよう。小気味よいアクションとして飲食を用いて鮮やかな効果をあげていることが、とりわけはっきり見て取れる小津作品の好例だからだ。

 テーマはハリウッド喜劇伝統のBattle of the sexes(男女の攻防、主導権争い)。何かにつけてガミガミとうるさい「妻」(栗島すみ子)と、その尻に敷かれる「夫」(斎藤達雄)の暮らす山手の屋敷へ、モダン・ガールで変わり者の姪っ子・せっちゃんが大阪からふらりとやってくる、という話。

 彼女がたばこを吸い、ショットグラスを傾ける場面を見てみよう(ぜひいま配信動画を再生してほしい)。

 ワンピース姿の桑野が立ち上がり、おもむろに煙草に火をつける(13:05-)。「およしなさい!あんたまだお嫁入り前よ」とおばさん。桑野は顔をしかめ、ぽいっと灰皿に煙草を捨てるのだが、またぱっと拾い上げて口にくわえ、悪戯っぽい笑みを浮かべながら「もったいないよって、こんだけ吸うとこ…!」。おばさんは言い返す気を失くす。一本!と言いたくなる見事なたばこのパントマイムなのだった。

酒場では。
「おいせっちゃん、こんなの飲んじゃだめだよ」(31:23-)とおじさん。「平気やん」とショットグラスのウィスキーをさっと飲み干しペースを握る。「うち、東京の芸者はん見たいわ」とさらに畳み掛ける。涼しい顔を崩さず、ポンポンと機先を制する言葉を発しながら、桑野の手は絶妙なタイミングで優雅に動きつづける。するといつのまにか彼女の意に沿う流れが引き寄せられている。
 

 このとき手は、グラスやたばこに触れつつ、さながらフェンシングの剣のように(もちろん直接攻撃するわけではないが)、主導権争いのダイナミズムを生き生きと可視化する。じつのところ小津映画の多くの会話場面は、一瞬の知恵比べの連続する大小の主導権争いとして構成されている。その場合の知恵は、小津映画において手の動きに宿る。アメリカ趣味を隠さない『淑女は何を忘れたか』の頃までの作劇に見やすいことだが、戦後作品でもそれは一貫する。

 食卓のグラスや茶碗とともになされる手のアクションをいかに精密に振り付けるかが、小津演出の核心の一つだった。『淑女は何を忘れたか』の桑野通子のパフォーマンスは、桑野自身のキャラクターともおそらく相乗効果を上げ、小津演出の最高の成果の一つである。桑野は『戸田家の兄姉』(1941)と『父ありき』(1942)でも鮮やかな存在感を示したあと1946年に惜しまれつつ夭折するが、その唯一無二の輝きはフィルムに焼き付き保存されている。

プロフィール

三浦哲哉

みうら・てつや|映画研究・評論。食についての執筆も行う。著書に『自炊者になるための26週』『LAフード・ダイアリー』『食べたくなる本』『『ハッピーアワー』論』『映画とは何かーーフランス映画思想史』『サスペンス映画史』。また、映画監督の濱口竜介、三宅唱との共著に『演出をさがして』。

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作品のあらすじ

『淑女は何を忘れたか』

小津安二郎監督

舞台は昭和初期の東京。大学教授の小宮とその妻の暮らす家に、大阪から天真爛漫な姪の節子が泊まりにきたことから始まる、軽妙洒脱な喜劇。その後、小津安二郎の右腕となるカメラマンの厚田雄春が、初めて”撮影”としてクレジットされた小津作品。