カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/ジェーン・スー

2023年8月11日

photo: Takeshi Abe
text: Neo Iida
2023年9月 917号初出

早稲田大学のサークル活動と、
ミネアポリスでの留学生活。
ラジオの道に繋がる、二十歳の出会い。

ジェーン・スー

 早稲田大学の正門前で、
 運命の出会いが。

「昔から、音楽や日常生活の話を面白おかしく喋ることは苦ではなかったんです。ラジオに出始めたときもいつもどおり喋っていたので、友達が『あまりにも普段と変わらないけど大丈夫なのか』って連絡してきたくらい(笑)」

 TBSラジオの昼の顔『ジェーン・スー 生活は踊る』のメインパーソナリティを務めるジェーン・スーさんの語り口は、番組と変わらず飄々として、かつ優しかった。リスナーが熱い悩みを寄せるスーさんにも、二十歳の頃は迷いや葛藤があったんだろうか。学生時代に時を戻そう。

「社会科が壊滅的に苦手で、英語と国語だけで入れる高校となると女子校が多かったんです。受かったから行くって感じで、文京区から東浦和まで1時間かけて通ってました。第一志望じゃなかったからふてくされてましたね」

 当時のスーさんはとにかく真面目だったという。授業が終わったらせいぜい駅前の『ロッテリア』でポテトを買うくらいで、基本的には、家に直行。渋谷で遊ぶなんてとんでもない。ひとり、部屋で音楽に夢中になった。

「その頃の私はガンズ・アンド・ローゼズが好きで、よくビルボードのカウントダウン番組を見ていました。当時は深夜に豊かなカルチャー番組があったんですよね。UKやUSAのチャートを扱う音楽番組とか、ランウェイまでちゃんと見せてくれるファッション番組が」

 同級生たちとバンドを組んでみたけれど、文化祭で発表して活動終了。大学受験では引き続き苦手な社会科を避け、フェリス女学院大学に合格した。

「当時は『彼女にしたい』『お嫁さんにしたい』という言葉で女子大生を形容していた時代。特に〝かわいい子がいる大学〟のイメージの強いフェリスに入っちゃったので、笑いながら擬態してやっていくしかないなと思ってました」

 フェリスではインカレと呼ばれる他大学のサークルに入るのが一般的。スーさんもまずは慶応大学を覗いたが、なんだかピンとこない。続いて早稲田大学へ足を運ぶと、運命の出会いが待っていた。

「正門の前でターンテーブルを出して踊ってる人たちがいて、ものすごくカッコよかったんです。吸い寄せられるように付いていったら『入りなよ』と勧誘されて。サークルといえばテニスやスキーだと思ってたから、入るつもりなんてなかったのに、音を出して踊る様子が素敵で、つい入部しちゃったんです」

 ソウルミュージック研究会GALAXYは、ブラックカルチャーに精通した音楽サークルだった。当時は’90年代前半で、ソウルやラップがアンダーグラウンドからオーバーグラウンドに上がる前夜。サークルで取り上げる音楽は多種多様で、スーさんが知らないアーティストもたくさんいたという。思いがけず入ったものの、通い始めると楽しかった。

「学祭で教室をクラブっぽくしたり、サマーパーティをやったりする以外は、活動といえる活動がないんです。でも毎週木曜の〝例会〟が面白くて。喫茶店の2階を貸し切り状態にして、ひとり一品頼んでみんなで延々話すんです。博識な先輩と話せるのが楽しくて、一週間のうち木曜に意識を集中させてました。親もびっくりですよ。早稲田に入ったわけじゃないのになぜそんなに夢中に? って」

 校舎は2年生まで緑園都市にあった。スーさんは木曜の授業が終わると電車を乗り継ぎ、2時間かけて早稲田に通ったという。魅力的だった先輩の一人が、ライムスターの宇多丸さんだった。

「宇多さんは当時5年生か6年生。すでにライムスターとして活動していて、大人気で、周辺の席が余ってることなんてほとんどありませんでした。他の先輩もカルチャーや歴史に詳しい知識人ばかりで、近くに座れると嬉しくて、『ああ今日は士郎さん(宇多丸さんの本名)たちと話せた!』って盛り上がってました」

 そういえば、現在コラムニストとしても活動するスーさんだけれど、学生時代に文章は書いていなかったんだろうか。

「サークルで発行するミニコミでは、新譜レビューを書いてライターになった後輩もいましたが、私をはじめほとんどの女の子たちは読む専門。なんとなく、あれは男の子のものって思ってたんですよね。今思うと不思議ですけど。私は友達とグループメールを作って、今日あった面白い出来事を長文で送り合ってはいました。でもそれくらいですね」


AT THE AGE OF 20


二十歳のときのジェーン・スー
二十歳の頃、サークルの飲み会でのスーさん。木曜の例会も、喫茶店が閉まると「04」と呼ばれていた部室で音楽を楽しんだが、スーさんだけは必ず終電で帰ったという。「地方から出てきてる子は親の目がないから金曜、土曜にクラブに行けたけど、私は実家住まいだったので無茶はしなかったです。夏合宿で静岡の吉佐美に行くときも、親が『学生が運転する車に乗ってほしくない』って心配するから電車で行って。今考えると真面目でしたね。親の言うこと比較的聞く子ちゃんでした」

1年間のアメリカ留学で感じた、
居心地の良さ。

 そして、スーさんの大学生活はさらにブーストする。2年になった二十歳の8月、ミネアポリスから車で30分の田舎町、ノースフィールドに留学をしたのだ。

「ものすごく楽しかったです! GALAXYでの私は喋ると面白いオモシロ枠で、女性の先輩や同期は華奢でおシャレでかわいい。なんでこんなに姿かたちが違うんだろうと思っていたんです。もちろん仲は良かったし、嫌な思いはしてないんですけど。でもアメリカに行ったら体の大きい人がたくさんいて、居心地のいい埋没というのを初めて実感して。みんなと同じってこんなに気が楽なんだと思ったのを覚えています」

 授業は連日びっしり。街に出るには車も必要だから、一週間ずっと寮暮らし。それでもキャンパス生活は最高に面白かった。帰国後はGALAXYに戻り、就職活動を経てレコード会社の宣伝担当になった。「ミクシィ」の日記が雑誌編集者の目に留まるのも、ラジオ出演の声がかかるのも、それからずっと先、12年間の会社員生活を終えたあとのことだ。振り返れば、二十歳の出会いが今に繋がっているとスーさんは言う。

「留学先のルームメートのジェーンは、私の名前のモチーフになりました。彼女はアメリカ人にしてはおとなしくて、みんなと違うテンポでのんびり生きている子。私とは全然違う性格だからうまくいったんだと思います。今でも連絡を取り合ってますよ。あと、私を最初にラジオに出してくれたのは、GALAXYが縁で知り合った音楽ジャーナリストの高橋芳朗さんと、放送作家の古川耕さん。出会った頃、芳くんはタワーレコードのフリーペーパー『bounce』の編集とか、シンコー・ミュージックの『FRONT』というブラックミュージック専門誌の編集者をしていて。古川さんも『FRONT』にいたんです。GALAXYに入らなくても音楽の仕事には就いたと思うけど、ラジオで話す道は遠かった気がします。ジェーン・スーにならなかった可能性もあるほど」

 サークルにいた頃を、宇多丸さんとの対談で振り返ったことがあるという。

「私のなかでは、美大から通うかわいい女の子のあとに、精神的2軍の私たちがいるようなイメージだったんです。でも宇多丸さんは私のことを『すごく楽しそうで活き活きとしてて、貫禄があるなと思ってた』と仰っていて。率先して楽しむ新入生に見えてたんですよね。自分の印象と人から見た印象がこんなに違うんだっていうのは大きな発見でした。それに、当時の私、そんなに楽しそうだったんだ、よかったな、と思いましたね」

ジェーン・スー

プロフィール

ジェーン・スー

2015年にエッセイ『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』で講談社エッセイ賞を受賞。著書に『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』(文藝春秋)、共著に『女らしさは誰のため?』(小学館新書)他。ラジオ『ジェーン・スー 生活は踊る』(TBSラジオ)でMCを務める。

取材メモ

早稲田大学戸山キャンパス前で待ち合わせ。担当編集がロールアップしたデニムにブルーのスウェットといういでたちで待機するのを見たスーさんは、「タイムスリップしたみたい!」とひと言。「今って若い人たちの格好が当時とクロスしてるんですよ。この格好で門の前にいるからびっくりした!」。ちなみにスーさんは当時、ネルシャツにアーミーパンツ、〈ティンバーランド〉のブーツでフェリスに通っていたそう。