カルチャー

デザイナー・吉田昌平さんに聞く。これまでとこれからのデザインの話。/前編

『白い立体』10周年。デザイナー・吉田昌平さんロングインタビュー。

photo & edit: Masaru Tatsuki
text: Ryoma Uchida

2025年3月4日

 アートディレクター、デザイナーの吉田昌平さん。デザイン事務所『白い立体』を主宰し、書籍、雑誌、図録など、多岐にわたるブック・デザインを手掛けている。『POPEYE』本誌では、2019年から約1年間、AD(アート・ディレクター)として携わってくれていた。そんな吉田さんだが、昨年「白い立体」が手掛けた展覧会図録『ハニワと土偶の近代』が、文部科学省主催の「第66回全国カタログ展」で金賞、経済産業大臣賞を獲得した。この機会に改めて、吉田さんのこれまでの来歴やデザインに対する思い、今考えていることなどなど、なかなか聞けなかったお話を根掘り葉掘りインタビューした記事の前編。

よしだ・しょうへい|1985年生まれ。広島県出身。 桑沢デザイン研究所卒業後、デザイン事務所 株式会社ナカムラグラフを経て、2016年「白い立体」として独立。雑誌・書籍のデザインや展覧会ビジュアルのアートディレクションなどを中心に活動。 その他に、紙や本を主な素材としたコラージュ作品を数多く制作発表する。作品集に 『KASABUTA』(WALL/2013年)、『Shinjuku(Collage)』(numabooks 2017年)、『Trans-Siberian Railway』(白い立体/2021年)
Instagram: @heiyoshida

ひょんなきっかけで大きな進路変更。本気で目指した第2の夢。

 吉田さんのお話を伺うべく、千駄ヶ谷にある『白い立体』の事務所へ。取材日は日曜だったけれど、吉田さんはこの日も仕事をすべく出勤していた。実は吉田さんは個人的な活動としてコラージュ作品も多く制作している(その際のお話はこちらからも)。そもそも、デザインやコラージュなど、活動の源泉になったものはなんだったのか。聞いてみると意外な答えが返ってきた。

「広島県出身で、高校生の頃は美容師になりたかったんです。ただ、親から助言があって。 『専門学校に通ったら、人生は美容師の道のみになってしまうから、その前にもう少し世の中を知ってから決めてほしい。本当になりたければその後に目指せばいいから、ひとまずは大学に行って、世界を広げてほしい」と。ありがたいですよね。今考えると本当に感謝でしかないです。でも当時、その他にやりたいことなんてパッと浮かばず“どうしょう”と思ったとき、スケート、BMX、音楽など、ストリートカルチャーのデザインやアートワークが好きだったことを思い出して」

 美容師を目指していた吉田さんに、突然現れた2つ目の選択肢。日常生活のなかで目についていた身近なアートやデザインをきっかけに、第2の夢も探し始める。ただ、当時は家庭にインターネットもなく、これがデザイナーと呼ばれる仕事なのか、その道のりもよくわからない。漠然と美術系の学校に行くことを意識したんだとか。

「僕は絵のことにも詳しくなかったし、当然ながら触れてこなくて。かといって勉強も得意ではなくて。進むなら美術系かなと思い、色々と調べていくと、入試にはデッサンがあることを知りました。そして高校2年生の終わり頃、デッサンを学ぶために『広島YMCA』という教室に通い始めて、そこでデッサンを習うのですが、スポーツ以外ではじめて時間を忘れるくらい熱中している自分にびっくりしたのを覚えてます。そこから美大の道を本格的に目指すことに決めました」

 自分の“好きなこと”と向き合い、それまで縁遠かった道へ方向転換。その後、広島の美術短大に進むことになるが、美術の世界に次第に熱中していったのだそう。

「最初は油絵、彫刻、日本画、デザインみたいに、美術におけるいわゆる“教養課程”を学ぶのですが、そこで彫刻がすごく面白くて。3次元なので、美容師になる為にもピッタリだと思っていたのですが、そのうち、美容師の夢を忘れるほど彫刻や立体の制作に夢中になっていました」

 当時はトルソーなど、いわゆる“彫刻”らしい作品を作り、授業以外では、平面のグラフィックを制作しつつ、個展も開催していたそう。ゆくゆくはデザインで仕事をしていきたいことも考え、卒業後は『桑沢デザイン研究所』の夜間部に通うことを決意。昼はデザイン事務所にてバイトをしたり、様々なアルバイトを経験。“美術の仕事”への道のりには正解がないため、漠然としたイメージを頼りに、自ら歩をすすめた吉田さん。現在でも続けているコラージュ作品の制作もその頃からはじめた。作家活動に興味を持ったのだ。

『桑沢デザイン研究所』で再び現れた「2つの選択肢」。

「桑沢に通っていた2000年代初頭〜半ば、村上隆さんや奈良美智さんらが台頭し、現代アート・ブームのような雰囲気を感じました。展覧会で見る作品にもコンセプチュアルなものが多かった印象です」

 アーティスト・村上隆が「スーパーフラット」というコンセプトを提唱したのが2000年。『第1回大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ』が開催され、翌年には『横浜美術館』にて奈良美智の大規模な個展が、また、現代アートの国際展『第1回横浜トリエンナーレ』が開催された。平成の半ばに、今にも続く現代アートの大きな地殻変動が起きた。

「作家的な活動を目指していたとはいえ、コンセプトがしっかり練られていないとアートの世界でやってはいけないんだと思いました。自分の場合は、考えて作るよりも、作りながら考えるとか、作った後に考える方が合っているような気がして。結果、今でもコラージュ作品はまずは手を動かして進めるというところは変わっていません」

 同時代で並行するアートの潮流や芸術の世界の壁の高さを感じた吉田さん。

「でも本当は絵を描いたり、作品を制作したり作家として生きていきたい思いはあったんです。で、それを桑沢の信頼していた先生に相談したんです。そうしたら『今そういう人がいないし、良いバランスが取れるはずだから、デザインも作品制作も2つともやっていけばいいと思うよ」とおっしゃってくれて。その言葉は、自分の中でプラスの意味ですごく響きました。最初はどっちつかずな自分にコンプレックスがあって。でも、結果として2つともずっと続けてやってこれたことはすごい良かったなと」

 作家としての道、デザインを学ぶ道、今度は2つの選択肢をどちらも取ることにした吉田さん。2013年には80点のコラージュを1冊の本にまとめた作品集『KASABUTA』をWALLから出版。「300部刷ったのですが、全然売れなくて。でも、自分の作品を見てもらえるきっかけになったという点では、作家としてのスタートはこのあたりからかもしれないです」と話す。では、デザイナーとしてのスタートはどうだったのだろう。

『KASABUTA』(WALL/2013)

「桑沢を卒業後1〜2年ほど、カメラマンのアシスタントやギャラリーでバイトをしつつ友人と“デザインユニット”みたいに活動をしていました。ただ、人脈もスキルも自分の引き出しもないし、一から仕事を学ぶためにデザイン事務所『ナカムラグラフ』に入社しました。2010年頃、24歳から、30歳までの6年間ですね」

作家と仕事と限界と。

 日々のコラージュ制作を『KASABUTA』として形を残し、デザインの道を『ナカムラグラフ』ではじめる。そんな2つの道が結実し始めたのが、2017年に発表したコラージュ作品『新宿(コラージュ)』だ。その作品の経緯を聞いた。

「『ナカムラグラフ』から2016年に『白い立体』として独立するのですが、その間近に、当時雑誌『BRUTUS』編集の杉江さんから連絡がありました。『KASABUTA』を見たそうで。写真家・森山大道さんの特集(「森山大道と作る写真特集」)を企画していて、誌面中に挟むタブロイドのデザインをしないかという相談でした。森山さんにはまだ許可を取る前でしたが、コラージュするのはどうかと話を頂いたんです」

BRUTUS No. 818「森山大道と作る写真特集」(マガジンハウス/2016)

 在籍していた『ナカムラグラフ』の中村さんにも相談した結果、トライすることに。「結果、森山さんもコラージュ制作を面白がってくれたんです」と吉田さん。ただ、その取り組みは誌面のみならず、一冊の本にまで拡大する。

「もちろん森山さんは既に長く活動されている方ですし、自分がちょろっと介入して“作りました”みたいに終わるのはとても中途半端な気がして。独立後、せっかくなら、一冊の本を丸ごと解体してコラージュしてみようと思いました」

 そこで選んだのが、2002年に森山さんが発表した『新宿』。吉田さんが制作した作品を森山さんも確認し、快諾。個展の開催と本の出版も行った。まさに仕事と作家活動が並走した出来事だ。

「コラージュの依頼も少しずつ増えたのですが、仕事としてコラージュすることは、なかなかうまくできないなと感じました。森山さんの写真だからできた作品で、また違う方の写真をコラージュして面白いものができるかというと、それは難しくて。デザインの領域にコラージュを無闇に混ぜることはやめようと思うきっかけでもありましたね」

『POPEYE』での忙しく辛くも、実り多き日々。

 独立後3年ほど経ち、2019年には雑誌『POPEYE』のAD(アート・ディレクター)として活動する。

「マガジンハウスの方に知り合いがいたわけでもないのですが、当時、コンペといいますか、ありものの素材でデザインを組んでみてほしいというご相談をいただきました。でも実は、最初は迷いながらもお断りをして….…過去の素材のみで組み換えても表面的に見え方が変わるだけだから、もっと『編集』の段階から考えないと面白いものは生まれないと思ったんです。しかも、自分一人で雑誌一冊なんてやったことはなかったですし。でも、 その後にたくさんお話していくなかで、結果的にご一緒させていただくことになりました」

左・POPEYE No.868『メキシコが呼んでいる!』(マガジンハウス/2019)
右・POPEYE No.867『おもしろい映画、知らない?』(マガジンハウス/2019)

 当時の『POPEYE』は、2012年から誌面の大幅リニューアルを主導した編集長、木下孝浩さんから交代を経た後。編集部内では今後の方針について混乱も起きていたそうだ。

「それまで作り上げてきたものがすごかったから、混乱もあったみたいです。僕は最初、とてもアウェイな存在で、そういう雰囲気がびしびし伝わってくるというか。なので、結果を出さないとこれはダメだなと。そして、取り組んだ一冊目が映画号(特集「おもしろい映画、知らない?」)ということもあって、評判も良くほっとしたのを覚えてます。でも本当にそこからですかね、現場でも頼ってもらえるよ うにもなった感覚が少しあって。ただ、ガラッと何かを変えることはできず、少しずつマイナーチェンジしていくイメージでした。雑誌はとても特殊で、たくさんの人の思いが込められていて。読者はじめ、営業、広告、編集長とか、それぞれの編集者、ライター、カメラマン、校正…..だから、全部自分の思い通りに制作できるわけなくて、みんなで作っていく感じ。 それがとても楽しいことでもあるし、大変なことでもあって。また、紙の選定や金額面でも制約が多いのもやってみて知ることができました」

「現在の町田編集長とは半年ほど一緒に仕事をさせていただきました。この期間は、野球でいうところの“中継ぎ”をお願いされまして。ネガティブな言葉かもしれませんが、悪い意味ではなく、徐々に前に進むための“中継ぎ”だったと思います。変える時期やタイミングを間違えると失敗すると思うし、その時期ではないということもすごくわかっていました。ただ当時は僕も若く、“変えてやろう”と意気込んでたりしていたので、モヤモヤした気持ちもありましたが、約1年の間にたくさんチャレンジすることが出来たと思います。それがなかったら今の自分は存在しないくらい大事な期間だったので、とても感謝しています」

インフォメーション

デザイナー・吉田昌平さんに聞く。これまでとこれからのデザインの話。/前編

吉田昌平 展覧会 『の』

前展「KASABUTA」以来、『Roll』では3年ぶり2回目となる吉田昌平さんの展覧会が開催。本展『の』では、新作の平面作品と彫刻作品を展示、販売する。『の』という文の前後をつなぐ言葉が示す、内在的つながりや連続性。その最中にある吉田さんの現在地を目撃しにいこう。

会期:2025年3月27日(木)〜4月19日(土)
時間:13:00〜19:00(月曜・休)
場所: Roll(〒162-0824 東京都新宿区揚場町2-12 セントラルコーポラス No.105)
TEL: 080-4339-4949(受付13:00-19:00)


Official Website
https://yf-vg.com/roll.html