ポパイ編集部とのメールを遡ってみたら、はじめて食べ物のことをポパイに書いたのは2014年のことだった。12年も経っていた。そら私も〝さきこ姉さん〟と呼ばれる歳になるわけである。
当時の私は、新社会人1年目。ピカピカのオフィス系シティーガール、と書きたいところだが、実態は仕事に忙殺される石ころであった。5分でも長く寝たいがあまり濡れ髪のまま出社している化け物のもとへ、ある日ピラリとメールが届いた。差出人はポパイ編集部。「サンドイッチ特集をやります。ホテルのクラブハウスサンドについて書いてくれませんか」。
き~た~! ポパイが~! 来たぞ~!!!
大漁旗をオフィスのデスクに掲げたい気持ちを抑えながら「やります、やらせてください、濡れ髪でもなんでも行きます」と直ちに返事をした。「ただ、土日しか稼働できません」とも書き添えた。そうだ、あの頃は平日深夜まで働き詰めで土日は駆け出しフードエッセイスト(ってかフードエッセイストってなんだよ?)で、本当に休みがなくて辛かったんだよな……(回想)。
しかしやる気の炎だけは燃え盛っていた平野23歳に、なんとポパイは4ページを明け渡してきた。しかも文章だけでなく写真も私が撮るという。今思えば、清々しい決断である。私は一生懸命取材をして一生懸命書いた。渾身のテキストを、いつかの真夜中にターンッ! と送った。
すると、程なくして、わりとどっかり赤字の入った原稿が戻ってきた。ヒィィィィン。
全身書き直しレベルだった。涙も枯れ果てる東京砂漠である。しかし、ご存知の通り私は会社で忙殺されていたので「すすすすみません、平日は戻せないので週末にやりますううう」と泣きの返事をした。すると一日経って「こちらでも赤字の件、実は悩んでまして……」とメールが。
「編集長に相談したところ、〝このままで行こう〟となりました。ですから修正は不要です!」
しゅ、修正は不要!? へ、編集長~~~~~!!!
その編集長が、いまや伝説の編集者とも言われる木下孝浩さんであることを、当時は知らなかった。その頃の私と言えば、会社で何をやってもダメ出しされ、100本書いたコピーが100本ゴミ箱行きの日々を送っていた。未熟とはそういうことなのだろう。仕事にはそういう季節も必要なのだろう。それでも、自分の中から出てきたものが何から何まで否定されるのは、堪らないものがあった。学生時代に培った無邪気な自信は、みるみる失われていった。私は私のままでいることが、どんどん下手になっていた。
だからこそ、編集長の「このままでいい」は、とてつもなく大きなものだった。
あなたの言葉で、あなたのまま、書いてください。そう、背中を押された心地がした。こんなふうにしか書けない自分を、こんなふうにしか世界を見られない自分を、卑下する必要はない。変えなくていい。整えすぎなくていい。あの判断がなかったら、きっと今の私もいない。
それから私は、ポパイで食べ物にまつわる文章を書くようになった。ピザ、パスタ、デート、カレー、カフェ、お粥、デート、デート。たくさん書いた。書けば書くほど、そのうち私は「いい店ってなんだろう」と考え始めた。仕事で編集者さんやライターさんに会うたびに「いい店ってどんな店だと思いますか?」と聞いていた。ウザい若手だ。
ある時、某紳士系雑誌の編集長にお会いする機会があったのでここぞとばかり同じ質問をした。すると「ホテルのメインダイニングだと思いますよ」と返ってきた。「ムラのない料理、完璧な接客、いつなんどき誰にとっても安定したクオリティ。そういう店こそ、いい店にふさわしい」。
なるほど。正しい意見だ、と思った。誰も文句の言えない正解だ。私だってホテルのレストランは大好きだ。今だってよくごはんを食べに行く。でも当時はその言葉が、なんだか苦しかった。これを完全無欠の正解としてしまったら、たくさんの不正解が生まれてしまう気がした。違うのに。それだけじゃないのに。この世界には、それ以外の〝よさ〟もあるはずなのに。そんな思いが盛り上がってか、その日の日記に私は大きく「相容れねぇ」と書いた。若い。若さが牙を剥いていた。続けて「ムラがあっても、完璧じゃなくても、そこにしかない物語のある店だっていい店だ。私はそれを信じたい。それこそが味なんだ」と書いた。これが、のちにポパイで始まる平野紗季子のフード連載「味な店」のきっかけになった。
たくさんの飲食店へ足を運ぶ中で、私の心がとりわけ躍るのは、きまって「ここにしかない」、そう思える何かに出会える時だった。再現性の低い、輝きのようなもの。食べ物でも空間でも。それらは完全である必要はなかったし、正しくなくてもよかった。自分がいいと思うことを好きにやって、やり続けて、いつしか、誰にも真似できない物語が宿ってしまった店。そんな店たちのことを「味な店」と呼びたい、そう思った。
〝味〟というのはつくづく不思議な言葉だと思う。それは、一見マイナスに見えるものすら魅力に変えてしまう言葉である。例えば、ちょっと態度の悪い店員さんにはムッとしても、怖すぎる女店主の客あしらいには一目置いてしまう。中途半端はダサくとも、極めれば味になる。そういう店に、そういう人間に、強く惹かれる自分がいた。
メディアでは、新店オープンや流行モノが取り上げられやすい。もちろんそれも大切だ。でも〝味〟という編集の切り口を持てば、古い店も、チェーン店も、町の中華も、高級店も、同じ地平に並べられると思った。料理の値段ではなく、食文化の序列ではなく、注目度でもなく、店に漂う気配を見る。そうしてはじめて、なぜまた行きたくなるのか。なぜ人に話したくなるのか。なぜ心が満たされるのか。その店を店たらしめる秘密に触れられるんじゃないかと思った。
そんな企画を、わかるよ、と言ってくれる媒体。やっぱりそれはポパイしかない、と思った。
だってポパイは、ずっとそういう雑誌だったから。服をただの服として見ない。部屋をただの部屋として見ない。彼らは、モノや場所の奥に宿るスタイルを、価値観そのものを、なんとか誌面に定着させようと腐心してきた人たちだと思う。だから、その店にしかない食の気配を見つめる企画は、ポパイでこそ始めたかった。
それである日の晩、引き続き会社員だった私は、引き続き石ころではありつつ、少しはやりくりを覚えたのだろうか仕事の合間を縫って、誰にも頼まれていない〝ポパイ連載・味な店〟の企画書を作った。そして「このままでいい」の後、何かのイベントでたった一度だけしかお会いしたことのなかった木下編集長の名刺を探し出して、突然メールでPDFの企画書を送りつけた。
「味な店という企画がやりたいです」と。祈りのようなメールだった。返ってこなくてもいいと思っていた。
すると、なんと数時間後に返信が来た。「面白そうですね。やりましょう」。歓喜した。これがポパイである。THIS IS POPEYE MAGAZINEである。
しかも私の書いた計画によれば「味な店はまず誌面連載ではなく、小冊子として世に出したい」であった。〝味〟という概念をちゃんと伝えるには、まとめて見せないと意味がないと思っていた。しかも私は、判型はカラーブックスサイズ(文庫本くらいのサイズです)にしたい、との要望まで出していた。若手のくせに注文が多い。いや、若手だからこそ注文が多いのかもしれない。経験がない分、夢だけは具体的である。
しかし結果的に、それらはすべて叶った。担当編集の青山さんは、一体どんなふうに予算をやりくりしてくれたのだろう。未だによくわからない。かくして2018年4月のポパイ「東京特集」号は、100ページほどに及ぶ小冊子版「味な店」の付録が挟み込まれて出版された。これが味な店企画のはじまりで、2026年現在も毎月連載を続けさせてもらっている。
実家皿の店、メニューがひとつの店、店主が上に住んでる店……。謎のテーマを出すたび、ポパイ編集部は「いいですね」と乗っかって、一緒に全力で取材をしてくれた。〝店の態度が気に食わないから星一つ〟みたいな評価が簡単に下される口コミ主義的な世界への反骨心から「塩対応の店」というテーマを掲げたこともある。塩対応でも愛すべき店、その店の人の思いを書きたいと思った。ところがガチの塩対応の店に取材依頼をしたものだから、依頼の時点で店主に「後悔させてやる!」と怒られた。怖かった。それでも最終的には、その時撮影した写真を見て「遺影にしたいぐらいだね」と言ってもらえた。怖かった分ちょっと泣いた。塩の奥には、ちゃんと人がいた。その店に、私は今も通い続けている。
長く続く雑誌と、長く続く店は、どこか似ているのかもしれない。
ただ古いだけでは残らない。ただ新しくなろうとしたって残らない。清潔さだけでも、便利さだけでも、人の心には残れない。求めているのはピカピカの正解ではなく、少し焦げた鍋肌で作る炒飯のように、妙に忘れられない味ではないか。合理化の波にさらされてもなお、なぜか消えない店の灯りがある。今日もどこかで、怖すぎる女店主が客を叱り、謎の観葉植物が店の入り口に繁り、メニューがひとつしかない店で「でも、ここじゃなきゃだめなんだよな」と誰かが思っている。何度も値札を書き換えた壁のメニュー表が、妙にぬるいお冷が、ほんのりと街の片隅で光っている。
いつかの私が「このままでいい」と言ってもらえたように。私はお店に対して、恐れ多くも同じことを言いたいのかもしれない。
完璧じゃなくていいです。正解じゃなくていいです。でも、あなたにしか出せない味があります。それを食べに来ました。それを書きに来ました。「味な店」というポパイの連載で、どうか紹介させていただけないでしょうか。
プロフィール
平野紗季子
ひらの・さきこ|エッセイスト、フードディレクター。1991年生まれ。本誌にて「味な店」を連載中。ポッドキャスト番組『味な副音声』がJ-WAVEでも放送中(月15:40~)。菓子ブランド〈(NO) RAISIN SANDWICH〉代表。主著に『ショートケーキは背中から』(新潮社)。ビデオポッドキャスト番組『おやつ』が今年2月から放送開始に。
Instagram
https://www.instagram.com/sakikohirano/
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