TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#3】近くて遠い、ケニアのキリン
執筆:大前プジョルジョ健太
2026年4月27日
灼熱の日差しが照りつける、午後1時のスラム。
腐敗したゴミの匂いが漂う路上に、ひとりだけ場違いなほど綺麗な服を着た少年がいた。
ラヒム君だ。
おろしたての一張羅に身を包み、満面の笑みを浮かべている。
「ドクター・アキ! 早くキリンを見に行こうよ」
その声だけが、やけに軽かった。
「じゃあ、この車に乗って行こうか」
その一言で、7歳の少年の笑顔が、すっと消えた。
さっきまで跳ねていた身体が、ぴたりと止まる。
「さあ、乗って!乗って」
アキさんが手招きをする。
けれど、足は前に出ない。
「この子、スラムから出るのが初めてなんです。車も、乗ったことがなくて…」
母親は、目を伏せたまま言った。
少し間があいて、もう一度、小さく続ける。
「私も…もう、ずっとスラムから出てません」
ラヒム君は、車のドアに触れることもできずに立っていた。
やっとのことで乗り込むが、車内は静寂のままだった。
誰も、外を見ていない。
5分も走らないうちに、景色が変わる。
トタンの屋根が途切れ、
舗装された道路と、整った大きな建物が現れる。
「見て見て! ドクター・アキ! トラック!」
さっきまでの沈黙が嘘みたいに、声が弾む。
窓に顔を近づけて、通り過ぎる景色をひとつずつ指差している。
アキさんの顔も、少しだけ緩んだ。
キリンの保護施設「ジラフセンター」に着くと、
そこには、まったく別の空気が広がっていた。
見渡す限り、白い肌の人たちばかり。
携帯を構え、笑いながらキリンに餌をあげている。
ラヒム君と母親の足が、また止まる。
さっきと同じ顔だった。
目の前にキリンがいるのに、
ラヒム君の視線は、そこには向いていなかった。
白い人たちの輪を、少し離れた所から、じっと見つめている。
ほんの数メートル。
誰も、それを跨がなかった。
「アフリカで作られるチョコって、アフリカの人は食べないんですよ」
突然、アキさんはそんな話をした。
「動物も一緒なんですね。
すぐ近くにあるのに、手に届かないものって、結構多いんです」
キリンがゆっくりと舌を伸ばす。
濡れた黒い舌が、観光客の手のひらをなぞっていく。
私は、その光景をただ眺めていた。
「ギャーーー!怖いです!無理です!」
場違いな悲鳴が、空気を切り裂いた。
40歳手前の男とは思えないアキさんの叫び声に、
思わずラヒム君が吹き出す。
「ドクター・アキ!こうやるんだよ」
恐る恐る差し出した手を、キリンの舌がゆっくりなぞる。
「気持ち悪い!ギャーーー!」
笑いながら逃げ回るラヒム君。
それを見て、アキさんも笑っていた。
少しだけ、空気がほどけた。
母親は、その様子を遠くから眺めている。
「もっと餌が欲しいな」
「見てて。こうやって拾えばいいんだよ」
地面には、踏まれた餌が点々と残っている。
ラヒム君は這いつくばり、一つずつ集め始めた。
「変なこと教えちゃダメですよ!」
私は思わず、声が強くなる。
「こうして一つずつ、外で生きる方法を覚えていけばいいんです」
淡々とした口調の奥に、重たいものが滲んでいた。
観光客のすぐ横にしゃがみ込み、
落ちた餌を素早く拾う。
顔がひきつる観光客。
「ラヒム君、それはやりすぎ!」
アキさんは慌てて頭を下げる。
それでも、どこかに笑いが残っていた。
やがて観光客はいなくなり、
その場には、地面に這いつくばる二人だけが残った。
「やっと、あの子に母親らしいことができたわ」
母親の声が、風に溶ける。
アキさんは顔を上げなかった。
「親って、どんなものなんですかね…」
その言葉は、地面に落ちたまま、誰も拾わなかった。
「ドクター!いっぱい集まったよ」
黙々と餌を集めるラヒム君の手に、迷いはなかった。
「彼が暮らすスラムには、1万人以上の子どもがいるんです。
こんなこと言ったらダメなんですけど…」
アキさんは、集めた餌をラヒム君に渡す。
「せめて、ラヒム君だけでも、外に出られたらいいな」
キリンの背中が、夕日を受けて、オレンジ色に染まっていた。
キリンの背中が、夕日を受けて、オレンジ色に染まっていた。
スラムに戻り、私は母親に気になっていた質問をした。
「どうして、スラムで生活することになったんですか?」
2畳にも満たないトタンの部屋に、重たい沈黙が流れる。
「実は、他に子供が5人いるんです…」
母親は、ゆっくりと話し始めた。
「みんな田舎に置いてきました…」
予想外の答えに、言葉を失う。
外からは、楽しそうにサッカーをする、
ラヒム君とアキさんの声が聞こえてくる。
「お金がなくて、夫の暴力と子育てに、疲れてしまって…」
その言葉は静かだった。
「気分転換で都会に行った時、HIVに感染しました」
台所に並ぶ薬が、やけに整然として見えた。
「田舎に戻ったら、家を追い出されて…
それで、このスラムに来ました。」
母親の名前はジュリアン、35歳。
当時、25歳だった。
「全部、自分の責任です」
そう言って、視線を落とした。
なんて言えばいいのか、分からなかった。
頭の中では、何か言葉を探しているのに、何も出てこない。
絞り出した言葉は、ラヒム君についてだった。
「彼は、HIV感染後に産んだ子どもですか?」
少しの沈黙の後、母親は答えた。
「そうです。このスラムで出会った男性との子です」
部屋の外からは、笑い声が聞こえる。
「旦那に病気のことは隠してたんですが…
この子が生まれてすぐに知られて、家を出ていきました」
話を聞きながら、頭の中では別のことを考えていた。
――薬を飲んでいれば、子どもに感染することはほとんどない。
――血液が混じる行為をしなければ、他人に感染することもない。
来る前に調べた知識が、何度も頭の中を巡る。
目の前で話している母親の言葉と、
頭の中の知識が、うまく繋がらない。
会話に集中できなかった。
気づくと、身体は少しだけ距離をとっていた。
「ドクター!パス!パス!」
「OK!」
ボールの音だけが、やけに軽かった。
帰り際、ラヒム君が、アキさんの服を引っ張る。
その手は、少しだけ強かった。
「また来てくれる?」
「また来るよ。次はもっと上手くなってるな」
ラヒム君は、何も言わずに頷く。
短い約束だった。
親子の背中は、トタンの部屋に消えていく。
アキさんに、母親のことを伝える。
「……。そうだったんですね…」
少し間があって、続ける。
「でも、ラヒム君はラヒム君ですよね」
その言葉は、あまりにも自然だった。
「変わらず医療支援を続けますよ」
アキさんは、いつも通りの調子だった。
「スラムで中華を、探しましょうか」
あまりに軽い言葉に、一瞬、拍子抜けした。
「きっとスラムを、もっと好きになりますよ」
その軽さに、少しだけ救われた。
足は止まらなかった。
私たちは、スラムの奥へと歩き出した。
プロフィール
大前プジョルジョ健太
おおまえ・ぷじょるじょけんた|1995年、大阪府生まれ。映像ディレクター。TBSにて’23年に自身が立案した『不夜城はなぜ回る』が「ギャラクシー賞」を受賞。その後’24年にTBSを退社。Abema『国境デスロード』『世界の果てに、くるま置いてきた』など、フリーのディレクターとして活動中。
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