TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#3】「へえ、すごいねえ」と母は言ってくれる。
執筆:燃え殻
2026年4月23日
今年の一月三十日、母が亡くなった。
突然のこと、ではなかった。母は闘病生活、十年を迎えていた。がんは全身に転移し、手術はもうできない。抗がん剤治療も、肺炎を起こして、ストップせざるをえない状態。
最期、病室で酸素マスクをした母と、ふたりきりになる時間があった。
僕はそのとき、四月に出す予定の、文庫『ブルーハワイ』の原稿を持っていたので、母に見せた。
「一冊になったらすぐに見せに来るからね」と母に伝える。
呼吸を苦しそうにしながら、ほとんど目をつむったままの母が、「へえ、すごいねえ」と言ってくれた。「でしょ」と僕は応える。
その夜、母は亡くなる。もっと話せばよかった、と思う気持ちがないわけじゃないが、この十年、僕は毎朝、母に必ず電話をかけていたので、覚悟はできていた。
毎朝、電話で話すのは、どーでもいい話。今日の仕事の予定、天気、大谷翔平の話、母の体調について、などなど。そんな話を、あーだこーだと五分くらいして、「じゃあ、また明日」を十年やった。
母は亡くなる数日前、「もう十分。あとから後悔なんてしないでよ」と僕の手を握りながら言ってくれた。なに言ってんの、と返したが、「そうだよね」と心の中では思っていた。
後悔しないように、そう誓いながら十年過ごしてきた。
父と妹と葬儀場に泊まった夜。そんな夜も、僕は原稿を書いていた。週刊連載の原稿が、その夜、締め切りだったのだ。なんとか書き上げ、どーにか送信すると、すぐに編集者から返信が届いた。「文庫『ブルーハワイ』に、あとがき書きませんか? お母さんのこと」と。迷うことなく、「わかりました」と僕は応える。
遺族控え室の隅で、僕は母へ最期の手紙を書くように、あとがきを書いた。すぐ横には、妹と父が寝息を立てて眠っている。
原稿が仕上がったとき、窓の外に夜明けの気配が差していた。
文庫が発売されたのは、それから二ヶ月後のことだ。
僕は文庫を一冊持って、実家に帰った。母の遺影の前に、発売されたばかりの文庫を置いて、手を合わせる。
もちろん写真の中で微笑んでいる母は、静かに佇んだままだ。でも、母が言いたいことは、僕はもうわかっている。
母がいなくなっても、もう母がなにを言いたいのかわかるくらいには、毎日話してきた。
きっと母もそうだ。僕と話さなかったとしても、もうわかってくれている。
母が、「へえ、すごいねえ」と言ってくれる。「でしょ」と僕は心の中でそう応える。
プロフィール
燃え殻
もえがら|1973年、神奈川県横浜市生まれ。2017年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、またエッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+とテレビ東京でドラマ化され、ほかにも映像化、舞台化が相次ぐ。著書に、小説『これはただの夏』『湯布院奇行』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』『ブルー ハワイ』『愛と忘却の日々』『これはいつかのあなたとわたし』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』『明けないで夜』『この味もまたいつか恋しくなる』など多数。
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