カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/DJ KOO

2023年11月12日

photo: Takeshi Abe
text: Neo Iida
2023年12月 920号初出

掃除もお使いもなんでも来い!
ラグビー部で培ったド根性精神で、
DJの座を掴み取った。

DJ KOO

新宿のディスコに通い詰め、
DJの見習いに。

 DJ KOOさんのインスタを見ていると、「バラエティー収録DO DANCE!!」とか「出演 DO DANCE!!」とか、テンション爆アゲなワードが並ぶ。近年ではバラエティ番組でも笑いを取りまくっているDJ KOOさんだけれど、本業はDJ。音楽の世界に足を踏み入れたのは、まさに二十歳の頃だったという。

「’80年直前のディスコは、タケノコブームがあって、ニュートラやローラーディスコといったキワモノ的な場所でした。それが、僕が遊びに行くようになった’80年を境に変わったんです。ヴィレッジ・ピープルやノーランズといったキャンディ・ポップや、YMOの「ライディーン」とかブロンディの「コール・ミー」が流れるようになって。不良からモデルさん、学生までが満員で踊る、ものすごい熱気でした。でもDJだけはDJブースという自分の仕事場を持って、お客さんをカッコよく盛り上げている。それを見て、僕もやりたいなって思ったんです」

 小さい頃から音楽好き。最初に夢中になったのはジュリーこと沢田研二さんだ。

「ジュリーがいたザ・タイガースがローリング・ストーンズをカバーしていたのを知って、中学ではどっぷり洋楽にハマりました。同級生が新御三家や天地真理さんを聴くなか、ディープ・パープルやブラック・サバスを聴いてるのは僕くらい。ロック好きな友達とギターを始めて、ミュージシャンを目指しました」

 高校でもギターは続けたし、文化祭で対バンもした。でもミュージシャンになる方法がわからない。限界を感じて、プロになる道を断念した。

 日本体育大学の附属高校でラグビー部にいたけれど、スポーツ枠で進学できるほど強くもない。ひとまず専門学校に行くことにした。

「そこで進路を考えるし、勉強もするからって親に頼み込みました。選んだのは神田外語学院。英語が勉強したいわけじゃなかったんですよ。学校の廊下に進学先が張り出されるから、格好がつく名前がいいなと思って。字面がいいでしょ」

 その頃には実家が千葉にあり、電車で神田まで通い、授業が終わると新宿へ。やがて夜の世界に魅せられ、1年で学校をフェイドアウト。そこからDJの見習いになったという。DJに見習い制度があるなんて。

「DJは徒弟制度みたいなもので、見習い、セカンド、チーフって序列があったんですよ。落語家さんに似てるかもしれないですね。どのDJも、今みたいにイベントであちこち行くんじゃなく、お店に付いていたんです。僕は新宿の東亜会館にあった『B&B』に入りました」

 するとトントン拍子に出世し、半年しないうちに出番がもらえた。

 秘訣は高校時代のラグビー経験にあったという。

「ゴリゴリの体育会系だったんで、高校では先輩の言うことも、目の前の不条理も、ガンガン突き進んできたんです。だからディスコでも先輩から言われたことはなんでもやりました。掃除して、ウエイターをして、選曲をメモして、頼まれたら即お使いに行く。だってあの頃の僕、どこの見習いより新宿でおいしいラーメンを素早く買ってくるのに長けてましたから。結局DJも言うことを聞いて真面目にやってないとダメなんです。おかげさまですぐお給料がもらえるようになりました。最初にもらったのが12万円。当時からするといい金額でしたよ」

 ’80年代の夜の新宿はどこよりも派手だったのだそうだ。第1次サーフィンブームが訪れ、ハマトラが流行り、小説『なんとなく、クリスタル』がヒット。若者たちは街に出て、ディスコで踊り明かした。

「夜のディスコから音楽やファッションの流行が生まれていました。お客さんもうんと若くて、『二十歳過ぎてディスコ行くって遅いかなあ』って話が出るくらい。そうそう、当時まだ若手だったとんねるずが隣のショーパブに出ていて、貴さん(石橋貴明さん)がブースに入ってきたことも。『コーちゃん何やってるの!』とかいって勝手にレコードかけちゃうから、ダメだって〜とかいって(笑)。同い年だし、よくふざけてましたねえ」


AT THE AGE OF 20


二十歳のときのDJ KOOさん
東亜会館6階にあったサーファーDISCO「B&B」時代、19歳のDJ KOOさん。「チーフになった最初の大晦日に、カッコつけてダブルのスーツでDJをやったときの写真です」。当時はファッションにも力を入れていたそう。「裏生地で作ったアロハシャツに、エンジェルフライトっていうフレア系のパンツがすごく流行ってました。冬はムートンのジャケット。モテる要素は全部取り入れたくて、冬はスキー、夏はサーフィン。人生でいちばんのモテ期でした」

清掃のバイトも経験。
人生を変えた後輩からの電話。

 ’80年代も中盤になると、DJ仲間のdj hondaさんと一緒に「The JG’s」を結成し、ミックス制作の仕事を始めた。

「サビがもっとあればダンスフロアが盛り上がるとか、イントロが長ければミックスしやすいのに、というDJたちの要望を叶えるサンプルを作り始めました。『That’s Eurobeat Non-Stop Mix』という、業界初のノンストップミックスを作ったことも。それが軌道にのって、荻野目洋子さんや久保田利伸さんのミックスをしたり、早見優さんと一緒に音楽を作ったりしていました。でも、なかなか潤わなかったです。今と違ってDTM環境がないんで、稼いだお金は全部機材代に消えてしまう。借金がどんどん増えて、多いときは300万円くらい。でも全然怖くなかったです。いつか売れて返せばいいって根拠のない自信があって」

 とはいえ、’90年代に入るとディスコブームにも翳りが見えてくる。店も低迷期に陥り、DJもどんどんクビになった。

「当時、仕事は月に1回か2回あればいいほう。結婚していたし、食べていくためにバイトを始めました。音楽制作で人前に出ていたから、人に見られないビルやパチンコ屋の清掃。やがてそっちがメインになり始めた頃、初めて不安になりました。音楽を辞めてこれで食べていかないといけないのかなって」

 転機が訪れたのは、横浜ベイサイドクラブにいた後輩DJからの連絡だった。

「’92年の暮れに、当時ロンドンで流行っていたレイブをやるから、そこでDJをやりませんか? と誘いを受けたんです。それを企画したのが小室哲哉さん。のちにTRFになるダンサーが11人くらい集められて、僕はDJとして参加しました。だから僕、小室さんから声をかけられてないメンバーなんですよ(笑)」

 参加にあたり、面談をかねて小室さんに挨拶に行った。現場仕事で両手は青タンだらけ。恥ずかしさに、袖で隠しながら対面したという。そこでビビッときた。

「存在にも音楽環境にも圧倒されて、この人についていきたい! と思いました。『明日も見学に来ていいですか?』と聞いたら『いいよ』と言われたので、押しかけ弟子みたいに毎日通いました。やがて小室さんがそばに付けてくれるようになって、そこからですね」

 TRFの快進撃はご存じのとおり。二十歳から今に至るまで、根っからの素直さと、何事にも愚直に挑む勤勉さ、そして未知の世界に飛び込む好奇心が、DJ KOOさんを形作ってきた気がする。

「ラグビー部で頑張った3年間が、僕の今の人格を作ったと思いますね。なんでも真面目にやってみる。苦しくても、好きなことは真っすぐ頑張る。だって、やってみなくちゃわからないですから」

DJ KOO

プロフィール

DJ KOO

ディージェイコー|1961年、東京都生まれ。神田外語学院を卒業後、DJの道へ。1992年にSAM、YU-KI、ETSU、CHIHARUとTRFを結成。約25年ぶりとなるTRFの日本武道館ライブが2024年2月18日に開催決定。

Official Website
trf.avexnet.or.jp

取材メモ

「あの頃は全フロアにディスコが入ってたんですよ」とかつての東亜会館(現・第二東亜会館)前で撮影。そういえば、DJ KOOさんの特徴的なマイクパフォーマンスは当時から? 「そうです。昔はミックスの六本木、喋りの新宿ってDJのスタイルが分かれてたんですよ。だから『イェイイェイイェイ!』っていうのも、43年前に見習いで入ったときからずっとやってます。新宿にいたからこそ今のDJ KOOがあるなと思いますね」