カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/山崎静代

2023年7月11日

photo: Takeshi Abe
styling: Kayo Narita
hair & make: Mitsuyo Adachi
text: Neo Iida
2023年8月 916号初出

アイドルになりたかった少女が
笑いと出合い、やがて勝負の世界へ。
チャンスを掴み続けた芸人人生。

しずちゃん
シャツ、パンツ 参考商品(ともにデスティネーショントーキョー☎03·3350·5027)

演技の稽古中に気づいた、
 「笑わせたい」という思い。

 この春話題になったドラマ『だが、情熱はある』は、オードリーの若林正恭さんと南海キャンディーズの山里亮太さんの“たりないふたり”の軌跡を追う物語だった。劇中では2004年の『M-1グランプリ』準優勝によって一躍スターになる南海キャンディーズの姿が描かれるが、俳優の富田望生さん演じるしずちゃんこと山崎静代さんは、どうも浮かない顔をしていた。

「『M-1』後は今自分が何をしてるのかわからなくなるくらい忙しくなりました。昼間にテレビの収録をして、夜中に稽古をして、移動の新幹線でしか寝れなくて。山ちゃんとの仲もどんどん悪くなって、何も楽しめなかった」

 しずちゃんは物心付く前から芸能界に憧れていた。最初の記憶はおニャン子クラブ。工藤静香さんの歌をお楽しみ会で披露し、アイドルになるのが夢だった。

「でもそのうち『自分、おっきいな』って思うようになって。中学卒業時には身長が170㎝あって、アイドルはかわいらしくて小さいし、正直そういうタイプの人間じゃないのかなって」

 高校では「心斎橋筋2丁目劇場」で爆発的な人気があった雨上がり決死隊とジャリズムの追っかけに。でも、お笑いをやりたいとは微塵も思っていなかった。短大に入ったものの、やる気が起きず就職活動をせず卒業。「さすがにヤバい!」とオーディション雑誌の募集に片っ端から履歴書を送った。結果は芳しくなく、ひとまず劇団ひまわりの養成所に入所。そこで運命の瞬間が訪れる。

「フリー演技の授業で無茶振りされたとき、どうやったら笑ってもらえるやろう、笑わせないと意味がないなあっていちばんに思ったんです。そこで、あ、私は笑わせたいのやと。自分はお笑いなんやと気づけたんですよね」

 コントのネタを書き始め、相方誰かおらんかなと心当たりを探した。NSCを卒業した中学の同級生に軽い気持ちで声をかけたら快諾。こうしてお笑いコンビ、西中サーキットが誕生した。とはいえ、しずちゃんは学生時代にネタなんて書いたことがない。一体どんなコントを?

「ひどいもんでしたよ。オチで必ず死ぬんです(笑)。病んでたんやと思うんですけど、体が大きいことへのコンプレックスが膨らんで、気持ちがマイナスに行ってたんです。中学高校ではスポーツに打ち込んで誤魔化せてたけど、短大には部活もないし、自分が嫌で人前に出たくなくなって。昔、廊下で男子に『岩石女』って言われて、睨み返すことしかできなかったのを思い出して、くよくよして」

 鬱屈した思いを抱えていた二十歳。ひたすらネタを書き、公園で練習した。そのうち誰かに見せたくなり、ひとり1000円の参加費を払えば出場できる「baseよしもと」のオーディションに参加した。

「あまりにも落ちて諦めかけたとき、相方が薦めたネタで受かりました。『ウケるとこんなに気持ちいいんや』っていうのを体感して、決勝に残るように。その頃1ステージのギャラが500円。手取りは450円でしたねえ」

 やがてABCお笑い新人グランプリ審査員特別賞を獲り、東京の深夜番組のオーディションにも受かった。まさに順風満帆。だが、予期せぬ事態が。

「深夜番組の最初の収録で相方が『もう辞める。ここまでの人間じゃなかった』って言い出して。始まったばかりやしわからんやんって説得を続けたけど、番組終了とともに辞めちゃって」


AT THE AGE OF 20


しずちゃん二十歳のとき
短大在学中から隙あらばオーディションに応募していたしずちゃん。写真は履歴書に付けるために友達に撮ってもらった19歳の頃のもの。このあとモーニング娘。の募集にも応募したらしい。しかし髪の毛が真っ赤! 「自分を変えることができないから、見た目の変化で気持ちを発散させてたんですよね。髪もそうやし、鼻ピアスも開けてました。耳にボディピアスっていうでっかいのも開けました。こういうファッションが好きだったのもあるけど、表現する術がなくて奇抜な方面に走ってたんですよね」

自分のキャラを生かしてくれた、
 山ちゃんのネタ。

 2002年、西中サーキット解散。相方を失ったしずちゃんは「ひとりじゃダメだ」と焦り、仲の良かった男性芸人とふたつ目のコンビ、山崎二宮を結成した。初の男女コンビになり、コントから漫才にスタイルを変更。そんなふうに模索するしずちゃんを、物陰から狙う男がいた。足軽エンペラーを解散し、ピン芸人・イタリア人としてタンバリンを叩いていた山里さんだ。突然「ケーキ食べ放題に行かない?」と連絡が来て、しずちゃんは怯えた。

「山ちゃんとは同じライブによく出てたけど挨拶程度で、もし恋愛みたいなことやったらどうしようと。でもケーキ食べ放題に惹かれて、行きました(笑)。『コンビを組んでほしい』ってネタのノートを見せられたけど、とにかく字が汚くて。読み取れないくらいのひどい字やって。面白いとかそんなんなかったですね」

 ネタで選んだわけじゃないとなると、組んだ決め手は?

「今までの相方と全然違うタイプやったんですよ。見た目デコボコのほうがおもろいと思って、私より小さくてルックスいい人がええなと思ってたんです。でも山ちゃんは背も高いし見た目もああやし、同じボケやし。似た人が横に並ぶのって想像してなかった。でも前のコンビも今のコンビもずっと同じことしてる気がして、行き詰まっていて。わからんけどこの人に賭けてみようと思ったんです」

 2003年、山崎二宮を解散し、南海キャンディーズを結成した。山里さんが書くネタは、しずちゃんのキャラクターをおおいに生かすものだった。

「それまで自分を客観視できてなかったんやなと気づきました。自分の大きさを生かせてなかった。でも、紙の上でネタを見ただけでは何も思わないんで、山ちゃんは『せっかく書いてきたのに笑わないな』と思ったかも(笑)。そもそも私と山ちゃんで作るネタの色が全然違うんですよね。でも意見も受け入れられないし、山ちゃんに従った感じかなあ」

 ノートに「火を怖がるサイの動き」と書いてあったら、山里さんが「こんな感じ」と一回見せてくれる。それをもとにしずちゃんが多少のアレンジを加え、違えば細かく指導が入る。そんな感じでネタを仕上げていった。南海キャンディーズはめきめきと頭角を現し、結成わずか半年で『M-1』準決勝に進出。翌2004年には見事準優勝を果たし、瞬く間に人気コンビとなった。上昇気流に乗りつつも山里さんはこの頃からコンビ間のバランスやスタッフの対応に憤っていたようだけれど、しずちゃんは?

「下積み経験がないから現場でうまくいかないなあとは思ってたけど、山ちゃんほどの浮き沈みはなかったですね。あと忘れてる(笑)。あんまり引きずらないんだと思います。誰ともつるまず、家に帰ってました」

 2006年には映画『フラガール』に出演。2007年にはボクシングを始めた。趣味で描いていた絵も評価され、今年初めて個展を開いた。自分の世界を広げてきたしずちゃん。二十歳の頃、ボクシングでロンドン五輪を目指すなんて夢にも思っていなかったのでは。

「ほんとそうですね(笑)。二十歳は落ちてた状態から動き出した頃。重い腰をあげて、オーディション頑張って。あの頃の自分には『やりたいなと思ったことを続けていき』って言いたいですね。今がすごく楽しいですから」

山崎静代さん

プロフィール

山崎静代

やまさき・しずよ|1979年、大阪府生まれ。2003年、山里亮太と南海キャンディーズを結成。個展『しずちゃんの、創造と破壊 展』は伊勢丹浦和店で8月2日から開催。同日、イラストエッセイ『5000グラムで生まれた女のちょっと気ままなお話』発売予定。

取材メモ

しずちゃんが撮影場所に選んだのは、27歳くらいのときに近くに片思いの相手が住んでいたという石神井公園。お付き合いには至らなかったけれど、淡い思い出があるのだそう。「20代で思い出したのがここで。遊びに来て、夏はよく散歩しました。野性的な人で、急に木に登って両手いっぱいにセミの抜け殻を集めて『はい!』ってくれたんですよ。それ見て、うわっ、この人好き! って(笑)。好きになった瞬間の思い出の場所って感じですねえ」