カルチャー

月曜日は批評の日! – 映画編 –

2023年2月13日

illustration: Nanook
text: Washitani Hana
edit: Keisuke Kagiwada

毎週月曜、週ごとに新しい小説や映画、写真集や美術展などの批評を掲載する「クリティカルヒット・パレード」。2月の2週目は、映画研究者の鷲谷花さんによる、2月17日より公開する映画『別れる決心』のレビューをお届け!

『別れる決心』2月17日より公開。
パク・チャヌク(監)
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 晴天続きのせいか、このところ久しく殺人事件が起こらない釜山、そもそも殺人事件が起きたためしがなく、養殖スッポン58匹の盗難が近来の大事件という、原子力発電所のある海辺の小都市イポ、概ね平穏な韓国の地方都市に、中国大陸から渡ってきた謎めいた美しい人妻が怪事件の連鎖をもたらす――。『映画的な、あまりに映画的な、美女と犯罪』とは、アメリカ合衆国及びヨーロッパの古典的映画に登場する「犯罪的美女」の魅惑を語り尽くした、映画評論家山田宏一の著作のタイトル(早川書房、1984)だが、『別れる決心』は、『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1958)をはじめ、昔ながらの「あまりに映画的な、美女と犯罪」のイメージに深く魅了されていることを隠そうとしない。

 タン・ウェイ(湯唯)の演じる『別れる決心』のヒロインのソン・ソレは、『めまい』で一人二役を演じたキム・ノヴァクのように、坂道の多い市街で、刑事の車に尾行されつつ、悠然と車を運転し、映画の前半と後半で、ヘアメイクと衣装をがらりと変え、別人のようなイメージで登場する。『別れる決心』のタン・ウェイには、『めまい』のキム・ノヴァク、あるいは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(テイ・ガーネット監督、1946)のラナ・ターナーら、古典的ハリウッド映画で「犯罪的美女」を演じた数々のスターのみならず、東アジアの古典的映画に登場した、犯罪と因縁のあるヒロインたちの面影も窺われる。たとえば、張り込みの刑事の監視の視線を受けつつ、日々ケアワークに勤しむ『張込み』(野村芳太郎監督、1958)の高峰秀子、あるいは、弱みにつけ込まれて強引に年輩の男の妻にされ、登山中の夫の「事故死」でひとときの解放を得る『妻は告白する』(増村保造監督、1961)の若尾文子ら、いくつかの日本映画の記憶も想起される。

 「犯罪と因縁の深い美女」は、映画の根源的な魅力としてのセンセーショナリズムとエロティシズムを凝縮した特別な存在として、「ヴァンプ」「ファム・ファタール」「毒婦」等々、時代や地域、ジャンルごとにさまざまな名で呼ばれてきた。山田宏一『映画的な、あまりに映画的な、美女と犯罪』は、そうした「犯罪的美女」たちは、「男たちの荒唐無稽な、あるいはむしろ、いい気な夢と欲望のでっちあげたロボットであったにもかかわらず、しだいに独自に血と肉を獲得し、その生身の存在そのものが男たちを脅かし、男性至上主義の制度をゆさぶりはじめる」と記す。過去の時代の映画の「犯罪的美女」たちの、さらなる「二次創作」ともいえる『別れる決心』のソン・ソレもまた、できあいの型の単なる寄せ集めと反復ではなく、「独自の血と肉」の重みをもつ存在としてスクリーンに息づく。母語ではない韓国語を探るように話し、言い間違いに気づいて思わず笑う表情、シャベルを使わずにブリキのバケツで土を掘る無骨な動作など、独特の小さな癖の数々が、かけがえのない固有の生のリズムを生き生きと刻む。

 ソン・ソレは、不法移民の介護労働者という、現在の社会のリアリティを体現する人物でもあり、また、植民地時代の朝鮮独立軍の英雄の孫でありながら、現代の韓国社会で正統なメンバーシップを認められずにきた過去をもつ。現実の社会と歴史との接点を欠いてはいないとしても、結局ソレは、2時間限定の作りごとの映画の世界の中だけで生きる、「あまりにも映画的」な存在だが、そうでしかないことへの矜持をみなぎらせて、タン・ウェイはソレを演じ、真に迫った夢の輝きを放つ。

 一方、パク・ヘイルの演じる刑事チャン・ヘジュンは、解決すべき事件の被疑者であるソレに、約束通りに魅了される。しかし、『めまい』の元刑事の私立探偵(ジェームズ・スチュアート)をはじめとする先達たちが、結局は「犯罪的美女」の罪を暴き、咎め、罰し、自分で事件を解決することを引き受けたのに対し、ヘジュンは彼らとは一線を画し、事件の真相を見通したとしても、「解決」しようとはしない。映画の夢と欲望を体現した「犯罪的美女」としてのソレに対し、ヘジュンはその「映画」の観客、あるいはファンにあたる立場に立つ。ソレの勤務先や自宅に張り込み、窓の向こう側のソレを双眼鏡で見つめるヘジュンは、たびたび現実にふたりを隔てている距離を超え、ソレのいる空間の内部に入り込んでしまう。『別れる決心』の張り込み場面の刑事の体験は、映画に没入するあまり、観客席とスクリーンとの間にあると仮定される「第四の壁」の隔たりを超え、映画の登場人物たちと同じ世界に入り込んだかのように錯覚する、熱心な映画観客の体験に近い。

 事件を「解決」するヒーローとなることを慎むヘジュンは、「観客」もしくは「ファン」の立場を踏み越え、ソレと本格的な恋愛関係に入ることを積極的に求めもしない。ヘジュンの望みは、犯罪事件を解決し、「犯罪的美女」を罰するなり救うなり、結婚するなり心中するなりして、自分自身が主役の座を占めることではなく、「この《美女と犯罪》の映画を終わらせないこと」にかかっているようだ。彼の望みを察したかのように、ソレは「あなたの未解決事件になるために、私はここに来たのかもしれません」と、極めつけの殺し文句を告げる。しかし、『めまい』がそうだったように、「犯罪的美女」の登場する映画は、いずれはやり直しのきかない形で終わり、映画の中だけで生きる彼女たちとの別れは避けられない。『別れる決心』のラストシーンでは、映画の終わりを見届ける悲しみが、「別れ」の悲哀と、スクリーン上で融合する。ソン・ソレを見張るチャン・ヘジュン刑事のように、熱中して映画を観続けてきた観客にとって、ラストシーンの悲しみは痛切に胸をえぐり、かつ陶酔させるものとなるだろう。

レビュアー

鷲谷花

わしたに・はな | 1974年、東京都生まれ。専門は映画研究、日本映像文化史。近著に『姫とホモ・ソーシャルーー半信半疑のフェミニズム映画批評』。その他の著書に『淡島千景ーー女優というプリズム』(共著、青弓社)、訳書にジル・ルポール『ワンダーウーマンの秘密の歴史』(青土社)がある。