カルチャー
月曜日は批評の日! – 小説編 –
2023年2月6日
illustration: Nanook
text: Kohei Aoki
edit: Keisuke Kagiwada
毎週月曜、週ごとに新しい小説や映画、写真集や美術展などの批評を掲載する「クリティカルヒット・パレード」。2月の1週目は、アメリカ文学を研究する青木耕平さんによる、リチャード・ライト著『ネイティヴ・サンーアメリカの息子ー』のレビューをお届け!
『ネイティヴ・サン』。アメリカ黒人文学史上最大の問題作。日本では数十年にわたり絶版となっていたリチャード・ライトの代表作が、新たに訳されて昨年末に刊行された。それも、ただの新訳ではない。1940年の本国発売時、「センセーショナルに過ぎる」と出版社に削除を余儀なくされた箇所が復元された、「完全版」からの初めての訳出である。本作は、紛れもなく20世紀小説の最重要作の一つだ。そう断言するところから本稿を始めたい。
『POPEYE』の読者ならば、ともすると2019年にHBOが制作した同名映画を観たかもしれない。そしておそらく「そんなに傑作だったか?」と首を傾げているはずだ。無理もない、映画版は傑作とは言い難い。シカゴの貧困地区に生まれ育った黒人青年ビッガー・トーマスは、富裕層にして慈善家の白人一家の運転手として雇われる。雇い主の一人娘であるメアリーは社会改革活動にのめり込み、ビッガーを活動に誘って啓蒙しようとする。ある日泥酔したメアリーを仕方なくベッドまで運んだビッガーだったが、タイミング悪く盲目の母親が部屋に入ってくる。二人きりで寝室にいることを悟られまいとビッガーは彼女の口を塞ぎ続け、図らずも窒息死させてしまう──。2019年の映画版では、ビッガーはここから逃亡を企て、その最後に射殺される。しかし、原作小説はまったく異なる。小説において、メアリー殺害は、作品全体のわずか五分の一程度を過ぎた物語の始まりでしかない。暴力と憎悪は連鎖して膨れ上がり、ビッガーは逃亡中に射殺されることを願いさえする。しかし、救済としての死は、銃弾は、決して彼に届かない。ビッガーを待ち受けるのは、白人たちが作り上げた、アメリカ社会の法である。
殺人を犯したビッガーに、法は情状酌量の余地を与えない。しかし、18世紀ドイツの詩人、シラーはこう言った──「舞台の法律は、現実社会の法の領域が終わったところに始まる」。小説『ネイティヴ・サン』が傑作であるのは、まさに法の領域が終わったところ──人間存在の内奥──を舞台とするからだ。ノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーは、書くという行為は「道徳的判断が宙吊りになる状態」を目指すべきだと述べた。ライトの滾った文章によって、私たち読み手の道徳的判断は、現実の法の領域を離れ、宙吊りにされる。
「いったい私たちはなぜ「書く」のか。「話す」ことによっては、もはやいい足りぬ何かをもつからだ。それこそ、ひとが「内面」と呼ぶものである」。そう柄谷行人はかつて喝破したが、まさに『ネイティヴ・サン』は「書かれた言語芸術」として、小説としての魅力を最大限に発揮する。彼を救おうと懸命に奔走した弁護人に対し、ビッガーが口を開くシーンを引用しよう:
「た、ただ、思うんですが、これは俺が自ら招いたことで……」。彼は立ち上がった。頭に言いたいことが溢れてきて、話したくてたまらなくなった。唇が動くが、言葉は出てこない。. . . . . . 「死ぬ前にあなたと知り合えてよかったです!」ほとんど叫び声になってしまい、それから黙りこんだ。それが自分の言いたかったことではなかったからだ。
このように、ビッガーは喋りが不得意で、収監後はほぼ喋らず、口を開いても言葉が詰まり、その言葉さえ、本当に伝えたいものではない。代わりにビッガーの内面は、ライトによって書かれ、読者に提示される:
どうしてそこにないものを求めて永遠に手を伸ばし続けるのだろう? 自分と世界のあいだにはなぜこの真っ黒な裂け目があるのだろう? 赤くて熱い血がこちらにあり、冷たい青空があちらにあって、どうして二つは合わさることがないのだろう? 一つの完全体にならないのだろう?
もしビッガーが黒人でなかったなら、貧困でなかったなら、時代が大恐慌下でなかったら、十分な教育を受けたのなら、内面を表現する言葉を持つことができたのなら、あるいは彼は、「また見つかった 何が 永遠が 海と溶け合う太陽が」と、アルチュール・ランボーのように調和した美の詩を詠むことだって出来たかもしれない。
「太陽」のモチーフの頻出と、偶発的な殺人、収監後の聖職者との問答、そして群衆から向けられる憎悪と、『ネイティヴ・サン』はアルベール・カミュ『異邦人』と共通点を多く持っている。しかし、驚くべきことに、『ネイティヴ・サン』は『異邦人』よりも二年先んじて書かれている。日本文学の愛好者であれば、三島由紀夫『金閣寺』や町田康『告白』の主人公にビッガーを重ねて読むことも可能だろう。
ただ、この小説は劇薬だ。見方によれば人種的な偏見を助長してしまうし、現在の見地からすれば女性蔑視が過ぎる。映画版とは異なり、読み終わったところで容易に「ブラック・ライヴズ・マター」と叫ぶことはできない。我々は三年前、「息が出来ない」と抵抗するジョージ・フロイド氏が無慈悲に白人に殺される映像を見た。しかしこの小説では、黒人のビッガーが「息が出来ない」と抵抗する白人女性メアリーを死に追いやる。本作最大の犠牲者は、ビッガーでもメアリーでもない、他の黒人女性である。最初から最後まで、ビッガーは、自分の命に救われる価値があるなど思っていない。この小説のなかで、もっとも「黒人の命は重要だ」と信じていないのは、他ならぬビッガーである。この自他への憎悪の複雑な回路は、小説でしか描けない。だからこそ今、我々は本作を読まねばならない。あらためて言おう、『ネイティヴ・サン』は、紛れもなく20世紀小説の最重要作の一つだ。
レビュアー
青木耕平
あおき・こうへい | 1984年生まれ。日本学術振興会特別研究員PD。アメリカ文学研究。著書に『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』(共著、書肆侃侃房)。
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