TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#2】「作り物」のCGが、価値観を転覆させる
執筆:土居伸彰
2026年5月18日
アメリカのCGアニメーション長編『ボーイズ・ゴー・トゥー・ジュピター』について、前回の続きの話をしたい。この作品のCG表現についてである。それはひとことでいえば、すべてが「かわいい」。人間であろうが、エイリアンであろうが、万物がかわいい。それは、創造主が自分が作った世界を俯瞰で眺めるような、愛おしさと寂しさが混じった感覚だ。
2025年は、『トイ・ストーリー』の公開から30周年だった。本作は全編CGによる長編としては世界初の作品だった。当時のCG技術だとどうしても温かみのあるものを表現するのが難しいなか、あえてツルツルのおもちゃを主人公にすることでうまく解決を図った。
そこからCGは劇的に進化した。同じピクサーが今年リリースした『私がビーバーになるとき』(本当に素晴らしくアナーキーな映画なのでオススメ! 『ボーイズ』とは別方向から、今のめちゃくちゃな世界を描いていると思う)では、動物たちのテクスチャーのフワフワ感がすごい。まるで本物の毛並みを見ているかのような、もっといえば、目で撫でるような、柔らかくて温かい気持ちよさを感じる。それが作り物の映像であることを忘れてしまうくらいに、没入させる。CGは基本的に、観客がその世界に入り込めるようなかたちで進化してきた。
一方、『ボーイズ・ゴー・トゥー・ジュピター』のCGは、ある意味では前時代的だ。人間キャラクターもまた、『トイ・ストーリー』のおもちゃのように、ピカピカツヤツヤとしている。いまこの時代において、人間をそんなふうに人工物のように造形することは、ある種の頑固な価値観によるものだ。このスタイルを選ぶこと自体に、なにか言いたいことがあるのだ。そんな作品は、見ている我々にもなにか変化をもたらす。ひとは必ずしも目の前の現実に囚われなくてよい、ということだ。
『ボーイズ』は決して、作品のなかに没入させない。キャラクターたちを「かわいい」と俯瞰させつづけるだけである。そんなふうに遠くから世界を眺めさせるとき、世間からずれている主人公も、逆に現実でイケイケの奴も、エイリアンも、実は誰もが変わらないとわかってくる。いやむしろ、世間とうまくやっているように思える奴らほど、単に今目の前にある社会のルール/プログラムに沿って滑らかに動けているというだけだとさえ思えるようになってくる。
『ボーイズ』の変なエイリアンは、いま目の前の社会の価値観に沿って動き回るもの(=デリバリー業に勤しむ主人公)を脱線させる。脱線し、野生に戻ることを誘う。何者にも意味づけられないものにしてくれる。そうなるともう、彼は自分自身でいるしかない。現実から離れたら少し焦るかもしれないが、でも、救いなのかもしれない。もう人と比べる必要もない。さみしいけど、頼もしくもある。とりわけ傍らに、一緒にいてくれる人がいれば。
きわめてパーソナルに作られた『ボーイズ』は、おそらく世間一般の映画とは目的を異にしている。大ヒットすることも目指さず、自らの美意識を突き詰めたこの作品は、観客に対しても自分らしくあるための「脱線」へと誘っている。チープでかわいらしいCGもまた、その証左なのである。いろいろなやり方、いろいろな生き方があるのだ、ということを伝えてくれる。
プロフィール
土居伸彰
どい・のぶあき|1981年、東京生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ニューディアー代表取締役。ひろしまアニメーションシーズン プロデューサー。プロデューサーとしては主にフランスとの国際共同製作によって日本のアニメ作家に新作制作の機会を提供する。著書に『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』『21世紀のアニメーションがわかる本』『私たちにはわかってる。アニメーションが世界で最も重要だって』『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』など。