ファッション

「常に柔軟に、何が美しいかを“真面目に”探し続ける」。コシノヒロコ、89年の軌跡と今思うこと。/後編

photo: Kazufumi Shimoyashiki
text: Fuya Uto

2026年6月18日

 今年の7月26日まで開催されている、コシノヒロコの大規模展覧会「(UN)KNOWN HIROKO KOSHINO ―新説/真説 コシノヒロコ―」。画家であり世界的なファッションデザイナーである日本のレジェンドだけど、意外と素顔は知らないのではないだろうか。御年90歳を目前としながらも、そのクリエイティビティは衰えるどころか進化を続けている。源泉を紐解くべく、兵庫県芦屋市のアトリエでインタビューを敢行! 後編は文化服装学院卒業後、故郷である大阪に構えたアトリエの話から。

「常に人を美しくすることが、洋服作りの基本の条件」

「卒業後も東京にずっと住みたかったものの、長女の私は親の跡取り娘だから、大阪に帰らなくちゃいけなくて、実家の洋裁店で働き始めたんです。でも何年かすると、母が気持ちをわかってくれたのか、『心斎橋に店持たしたるから』と言ってくれ、1964年、心斎橋にオートクチュール(顧客個人のためのフルオーダーの一点もの)のアトリエ『クチュール コシノヒロコ』を開きました。この頃は海外の良質な生地を扱うお店や業者さんが大阪にたくさん集まっていたので、すごくやりやすかったんです。方法は今と変わらず、スタイルブックは一切置きません。その人と1時間くらいじっくり会話し、顔と布の表情を見ながらデッサンを書いて『こういう服を作りましょう』と提案する。当時1ドル360円のなかで仕立てる洋服はもちろん高いけれど、その絵が実物に近いものが書けるので、お客様も安心するのね」

1959年、お母様の洋装店を継承したときの一枚。

1964年、心斎橋にオープンしたオートクチュールのアトリエ『クチュール コシノヒロコ』(店前の女性は不明)。

 ‘64年は東京オリンピックが開催されたり、観光目的の海外渡航が自由化されたりと、日本が高度経済成長の絶頂期にあった年だ。ゆえに海外の新しい文化が日本にどんどん流れ込むなか、大阪は繊維産業の中心地として、世界中の優れた輸入生地を扱う問屋が数多く集まっていた。街中の女性は西洋の華やかなスタイルをこぞって取り入れていたという。

「それまで存在しなかった洋服を四六時中作っていました。その人がどんな生活していて、どんな考え方なのかを自分で感じうる範囲のなかで表現する。だから、私がやろうとしてることは世の中を攻撃するような考え方の洋服ではなく、目の前の一人の人間に寄り添い、その人を最大限に生かしきれるようなスタイルを提供すること。常に人を美しくするのが基本の条件だから。人の中身まで、生き方までが変わっていくようなレベルの洋服を作ることを心がけています。美しいものに対する考え方、人との接し方、歩き方……洋服は自分の身体に一番近い環境なんだから、美しいもの身に付けるっていうことは、中身も人格も美しくあらねばならない。美しい人は何を着ても美しいというふうに、ね。私は一生、人のために美しいものを提供していくデザイナーとしてやっていくのだと思います」

 個人の美しさの指針となる、人生を一緒に歩いてくれるような洋服を“一生”作る。そう強く思うようになった転機は33歳のころ、仕事で訪れたアフガニスタンの旅だったという。

旧友だという建築家の安藤忠雄さんが設計し、1981年に竣工した『KHギャラリー』にて。コンクリート建築の元自邸を現在はギャラリーとして公開している。予約すれば見学可能。

アフガニスタンで薬と引き換えに見た
「ボロ布の美しさ」。

「当時’70年、今では大企業に成長している某アパレルメーカーが、これから大きくするんやという時期で。そのためのTVCM撮影の依頼で、スタイリストとしてモデルの我妻マリさんらとアフガニスタンへ40日間行くことになったんです。ただ、破壊前のバーミヤーンを背景に、砂漠をラクダで移動する家族にカメラを向けたら、鉄砲と勘違いされ攻撃的になってしまって……私ら女性は車内で震えながら待っていたのですが、そのときの交渉で役立ったのが、日本からたくさん持参したお薬でした。お金じゃなく、彼らにとって本当に必要な薬を撮影の引き換えに渡すことで、素晴らしい生活のあり方を撮ることができたんです。そうして仲良くなった現地の女性を見ると、ボロ布やアクセサリーを継ぎ足し自分で作るたった一枚の洋服が全財産で。とっても色が綺麗で、アフガニスタンの澄んだ光のなかで見ると、私たちが考えていた美しさと全く違うボロボロの美しさがありました。だから、私は機械で量産する世界ではないオートクチュールで、一つ一つ人間の暖かい手で作り続けようと決心したんです」

 コシノヒロコさんは現在、洋服のほか、日本の花をモチーフにしたアブストラクトな絵画やアート作品の制作と日々向き合う。「作品には名前ではなく、番号をつける」というように、印象は見る人の感覚に委ね、ある種の余白を残す。本展覧会もそんな意図が組み込まれているのだとか。

鮮やかな色使いで一見明るい印象だが、実はある苦い記憶がベースになっている。「フランスにいた意地悪な先生が、私をタバコをふかしながら見下してるときの記憶で描きました。なかなか話が合わなかったですね

自由に触ってよし、デザインを盗みたかったら盗んでよし。

「120点ほどの洋服を、誰でも手で触れて鑑賞できる展示室を設けています。ファッションショーや展示会で見せるだけでは洋服の良さは伝わりづらいと思うから、素材の質感を感じたり、カッティングを裏からひっくり返して構造をちゃんと理解して欲しくて。デザインを盗みたかったら盗んでいいし、とにかく若い人たちがどういうふうに感じて、今後どんないいものを作るようになるのか、その一つのきっかけを作れたら嬉しいですね。子供のときに感動したものは一生を左右します。だから、いかに若いときに感動に値するものにたくさん触れるかによって、その子の生き方や人生が変わると思っています。次の日本を背負っていく文化的なクリエイターを日本から生み出すことが、すごく大切なことね」

 見てわかったつもりになるのではなく、その布を触ったときの指先の感触、手に伝わる重さ、擦ったときの音などを自分の身体で理解すること。創作においてこれほど基本的かつ大事な教訓はないのかもしれない。

「ものの考え方は正道でいいけれど、固まっちゃダメね。横や後ろや上や下から、色んな角度からものを見るという観念は必要です。その裏側の魅力を見つけ出すのがデザイナーの仕事ですから。違う角度から見て、全く想像できない非常識なことを面白がりたいんです。だからこそ、常に柔軟じゃないといけないと思っています。頑固だと、新しいものがどんどん入ってこないから。何が美しいかを自分のなかで探り続けていると、何を見ていてもいいものを発見する能力が優れてくるはず。真面目に一生懸命、それをやるんです」

常に楽しみながら実験的に作っているそうで、これは絵の具が湿ったところにティッシュペーパーを2枚重ね、上の一枚を剥がすことで、薄いシワのような質感を出すことに成功。創作に終わりはない。

プロフィール

「常に柔軟に、何が美しいかを“真面目に”探し続ける」。コシノヒロコ、89年の軌跡と今思うこと。/後編

コシノヒロコ

1937年、大阪府生まれ。ファッションデザイナー、画家。文化服装学院卒業後、1964年に大阪心斎橋にオートクチュールのアトリエを開設し、’78年には日本人として初めてローマのコレクション「アルタ・モーダ」に参加。現在は東京都港区に本社を移し、自身のブランド〈HIROKO KOSHINO〉のほか、ライセンス商品やユニフォームデザインなど多方面で活躍する。今年5月26日から7月26日まで、膨大な創作活動を紐解く大展覧会「(UN)KNOWN HIROKO KOSHINO ―新説/真説 コシノヒロコ―」を『東京都現代美術館』にて開催中。

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